「私が…ですか?」
「ああ、俺は君の医術の知識が欲しいんだ」
「医術なんて大層な知識私には、」
「いや、船長に施した応急処置の的確さと迅速さは、この国の誰も真似出来ないだろう」


いい顔で言い切ったシンさんが未だに硬直して動かない、否、動くことの出来ない私に再び歩み寄ってきた。一度は離した筈の距離を詰められた側としてはいい迷惑だ、というより状況が分からなすぎて困る。

まず待て、この国はそんなに医療が進歩していないのだろうか。まあ確かに向こうに合わせて考えると近代以前ではありそうな気がするけれど、それでも。

大股で歩くシンさんはたったの四歩で私との距離を埋めてしまったようだったけれど、それに気付いたのは彼の手のひらが私の肩に乗ってからだった。何故かすごく威圧的に感じられるのは彼が長身だから、という事にしておきたい。


「どうだ、引き受けてくれるか?」
「引き受けるというか、まず私はシンさんの商売の何の助けになるのか分からないんですが…」
「それは心配しなくていい」
「いや、あの」


心配云々ではなく内容が知りたいんですけど。
そう言おうかと開きかけた口は、少し離れた場所で私達の成り行きを見詰めるジャーファルさんの瞳が余りに険しかった事で閉じられた。

何だか意味も分からず引け目を感じて、もう内容なんて分からなくてもいいかと一息吐いて考える。私が何の役に立ちそうなのか興味があったのだけれど、実際聞いたからといってシンさんのお話を受ける気は甚だ持ち合わせていないのだから。だって最初から答えなんて、決まっている。


「すいません、お話は嬉しいんですけど」
「ダメか?」
「はい、船長さんへの恩を忘れたくないんです。船長さんが居なかったら私も今頃いなかったかもしれません。だから私、これからも船で少しでもお手伝いが出来たらと思っています。」


こんな私を誘ってくれて有り難うございました。
今度はきちんと声に出して今日何度目かのお辞儀をする。

顔を上げた時のシンさんの表情を心配していなかったと言えば嘘になるけれど、どうやらその必要はなかった様で。
シンさんは、恩義に報いる姿勢とは見守る者としても心地良いものだな、なんて年寄り臭い台詞を携えて私に微笑みかけてくれた。ついでに後ろのジャーファルさんも頷いて笑顔を見せてくれたので、私は何故だかとても胸が熱くなった。


「じゃあ、今度こそ失礼します」
「ああ、いつかまた会おう」
「私からも、リンネさん」
「はい?」
「出航後も、是非またシンドリアにいらして下さい」


正直、ジャーファルさんにそんな柔らかな表情で再見のお言葉を頂けるとは思っていなかった。その分余計に嬉しくなったからか、思わずシンさんから差し出された右手を強く強く握ってしまった。
だから別にシンさんにやらしい好意を持っている訳では決してないから、そんな期待した目で見ないで欲しい。あと反対の手で私の腕をさするのを早急に止めて欲しい。

可笑しな勘違いを抱いたらしいシンさんに、ジャーファルさんのご助力を借りてやっとのことで両手を解放してもらってから、漸くきちんとホテルの入り口と向き合う。振り返ると、何か悪いことでもあったのか不穏な雰囲気でひそひそ会話する二人の姿が視界に入ったものの、彼らは私のさようならが乗った視線に気付くと一変して笑顔で手を振ってくれた。


本当にありがとうございました。
声にすると思いが薄れてしまう気がしてそっと胸中にだけ反響させる。シンドリアの風は船上の潮風よりもよっぽどしょっぱくて、でも少し優しい味がした。





さてさて、いかが致しましょう。
久々に自由な時間を貰ったのはいいものの、肝心の何をすればいいのかが分からない。シンさんから十分過ぎる程のお金は頂いてるけど、生憎今は観光や買い物という気分ではないのだ。寧ろそう、勉強したい。

一度考えたら何だか一気に思いに切実さが増した気がした。実際に勉強道具が無いわけでは無い。こっちに来た時に持っていたボストンバックには、彼氏の家に置きっぱなしにしていたパジャマや服、それからやりかけのレポートの為に用意した看護医療系の資料やテキストが入っているから。

けれど残念な事に、ボストンバックは目立つし異質だからと言って船の中に置いてきていた。

でもでも、暇なものは暇だからなあ。
暫く清潔感あふれる真っ白なシーツの上で呆けるように考えてみたものの、結局特にしたい事は見つからなかった。自由過ぎると臆病になるのが人間という物である、なんてもっともな台詞を並べ立てていたどこかの大学の名誉教授の言葉が脳裏をよぎる。


「…散歩するか」


段々と近寄ってきた小さな睡魔を察知してか、ふとそんな衝動に駆られた。ここが、シンさんやジャーファルさんが生活する国がどんな場所なのか見てみるのもいいかな。そう前向きに考えて、さっそく外出の準備を始める事にした。

軽く乱れた髪を素早く櫛で梳いて、最低限のお金を着慣れない服の懐にきっちりとしまうと、自分はこの世界の住人になったのだと痛いくらいに実感する。
戻れなくて嬉しくない訳ではないけれど、それでも今の時点ではまだ、ある種の開放感みたいなものを感じてもいた。私は存外薄情な人間らしい。


動き始めはのろのろしていたものの、気付けばあっという間に支度が出来上がっていた。

よし、いくか。ここに来るまでの道で見た、大きな噴水のある公園と思われる場所に行ってみようかと、散歩の段取りを頭の中で固めながら部屋の鍵を閉めて足早に階段を降りる。こちらに来てからは随分とこの脆弱な現代人ボディを酷使した為か、何となく足腰も強くなっているような気がした。あくまでも気がするだけだけれども。

フロントの生花の髪飾りが栄えるお姉さんに軽く会釈をして外に出ると、やはり部屋の中よりも気持ちが良いことを否が応でも実感させられた。

公園に行くにはさっき来た道を行けばいいんだから…。
考えながら歩いていた所為か、次の瞬間前を歩いていた男性の背中に思いっきりぶつかってしまった。ドス、なんて鈍い音と共に衝撃を受けたのは勿論女の私で、よろめくと同時に今まで考えていた事なんか頭から飛んでゆく。

す、すみません!相手が男で自分は女という事もあり、急ぎ謝罪をしつつ頭を下げた。斜め上から感じる視線が私の後頭部に容赦なく刺さる。ただ、三秒弱の間を置いてから顔を上げた直後に私に当てがわれた言葉は、予想だにしないもので。


「リンネこそ大丈夫か?」
「はい、ってなま、…あ、」


船長さん?大きな背中を持つその見慣れた男性に辛うじてそう口を利いたのと、彼が素早く私の首裏を叩いたこと。どちらが早かったかなんて、混濁しかけた意識の中で判別を付けられる訳はなかった。





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