「止血します!至急、縛る物を!」 「紐でいいのか!?」 「包帯でも麻紐でも、縛れればなんでもいいです!早く!」 南海生物、それは異世界から来た私にとっては勿論見たことも聞いたこともない生き物だった。現にさっきも何が何だかさっぱりだったけれど、ただ恐ろしい生き物だという事だけは学んだ。 あの怪物が現れてから、船は正にてんやわんやで、乗組員全員があの思い出すだけで寒気がするような巨体をなんとか撃退しようと甲板に出てきた。それは舵をとっていた船長さんも同じ事で、私はそこで漸くこの生き物がどんなに脅威的なものなのかを悟ったのだ。 こんな沖にまで南海生物が出てくるのか!このままじゃ船が横転すんぞ! 怒鳴りあうようにそんな恐ろしい会話を交わしていた船員達を無視して南海生物の届きそうな甲板の端に進み出たのはシンさんだった。彼は皆の制止も聞かず、怪物に向き合って…。 実はそこからは記憶がない。 ただ分かるのは、シンさんが何かをした事、そして彼のその行為で南海生物とやらが死ぬか退くかをした事のみだった。そう、何が何だか理解は出来なかったけれど、一度事態は収束した筈だったのだ。体当たりを受けた衝撃で折れた帆が、船長さん目掛けて倒れなければ。 「あと暇な人は水と清潔な布!水は器に張って持ってきて下さい!」 不思議な事に、緊急事態というものは人間を強くするらしい。私のカラカラに乾いた喉からは、今までじゃ考えられないような大声が勝手に飛び出してきていた。けれど逆にそうでなくては困る。目の前で恩人が大怪我を負っているのに、動転してびびってなんかいられない。半径を限るような小さい声なんか出してられない。 船長さんの右肩あたりに、折れた帆の大きめの破片がグサリと突き刺さっているのを目にした時、私の体は勝手に動き出していた。私は看護師だ、救えない訳がない。実践がまだまだ足りないペーパー看護師だとしても、知識はこの中の誰より有るはず。胸が締め付けられるような思いに身を任せて、こんなに声を張り上げるに至ったのだ。 とにかく、とにかく助けなくては。 やっと紐を探していた船員が室内から顔を出して、あったぞ!の声と共に投げてきた麻紐を辛うじて両手で捕まえる。止血する道具が揃っておらず、抜くに抜けなかった木の破片を漸く抜ける体制になった。ただ抜いた瞬間に止血しなくては意味がない。それ故私一人では事を成すことは不可能なので、誰か手伝って下さいと精一杯の声量で叫んだ。 けれど男性というのはどこまで血に弱いのだろう、その場にいた殆どの船員たちが二、三歩後退するのが確認できた。本当に使い物にならない。 「俺がやろう」 舌打ちしそうになった瞬間に進み出てきたのは他でもない、シンさんだった。 本人に聞こえる程度の声量でお礼を言いつつも、血流の止まっている右腕のマッサージは止めずに空いている手で麻紐をピンと張る。そのまま肩をなんとか持ち上げて紐を回し、傷口より体寄りにキツく結ぶ準備をした。先に結んでしまうのも手だけれど、傷口が肩なのでズレてしまう恐れが無きにしも非ずなのだ。 「いいですか?シンさんはこの木を一気に抜いて下さい。出来るだけ迅速にです。そしたら私が止血しますから!」 「了解した!」 「じゃあお願いします!」 「ああ、いくぞ!」 「…っ、」 シンさんが素早く破片を抜いた途端に、渋滞していた血が勢いよく流れ出てくる。血液の生ぬるい温度と鼻を刺すような臭いなんて忘れて、素早く紐を、所謂全身全霊という一種の魔力的な力で縛り上げる。もう、無我夢中だった。 ![]() 止血も傷口の応急処置も終え船長も室内に運び込んでもらったのを確認してから、ゆっくりその場にへたり込む。二年でも三年でも長期実技研修があったけれど、研修先でも出会った事のない命の現場に、脆弱な現代人ボディはこれ以上ない程の悲鳴を上げていた。 だからだろう、背後から近付いてきたシンさんの存在に、本当にギリギリまで気付かなかったのは。 「リンネ、お疲れ様」 「はい…お疲れ様です」 「素晴らしい働きだったな」 「そんな事ないです、不手際だらけで船長にも申し訳なかったです」 謙遜ではなく本心から出した言葉がシンさんにどんな印象を与えたのかは私では推し量り難かった。 「ありがとう」や「すげーな」なら今さっき嫌という程浴びたけれど、何故かそう感謝される度に私の心は痛むのだ。もっともっと、的確に素早い処置の方法があったんじゃないか。先に結んでおけばもっと出血は少なかったのではないか。頭に巡るのはそんな感情のみで、本当に嫌になる。 「でも俺は、感動したよ」 「感動?」 「ああ、感動した」 そうか、感動、か。嫌な気はしないかもしれない。 この時私は彼の感動の本当に意味する所を完全に履き違えていたけれど、それに気付いたのはもっと先の事だった。 |