あと二日もすればシンドリアに着くと快活に笑いながら口にしたのは朝食時の船長さんだった。二週間とは言わずとも、十日間以上はかかるだろうと踏んでいた私にとっては驚きの情報だったことは言うまでもない。 なんせまだ、バルバッド港を出発してから一週間しか経っていないのだから。 洗った食器を、オレンジに染め上げられた甲板の近くで海水で流しながら、時間の流れの早さを実感する。 バルバッドからの船旅は、それまでより数段騒がしく元気なものだった。多分それは、シンさんが乗船した事が大きかったと思う。代金前払いだし、宝石みたいなのは沢山持ってるしで、私を含めた乗組員一同は最初は彼をお高く止まった商人かと勘違いしていたのだけれどそれは大きな間違いだった。 わざわざ個室に運んでいった朝食よりも船員達と囲む食事を好み、難しい顔で書き物をするよりも船の手伝いをする事を好み、険しい海の様子を見るより笑顔で酒を飲む事を好む。誇張表現ではなく、シンさん太陽みたいな人だったのだ。 無論そんな人当たりのいい男性を海の男達が気に入らない訳がなく、今ではもう元からいた人間のように自然に扱われている。お陰でより賑やかになった男性陣からより頻繁にお酒の杓を要求される事が増えて困ってもいるけれど。というか男は本当に侮れない。だって何故か大量に、私に隠れてお酒を用意していたのだから。 現に今も丁度、暇な乗組員達が一杯引っ掛けているらしく扉の向こう側からは明るくも野太い笑い声が響いていた。 もう、まったく。 一つ息を吐いてから沖に沈む体勢を整えつつある夕陽に目を向ける。網膜が焼けそうになるくらいに眩しいそれを直視するのは、三秒が精一杯だった。それどころか三秒間見詰めるのさえ、目に多大な疲労ををかける。この世界では太陽との距離が異様に近い気がするのは気のせいだろうか。 「今日の夕陽は赤いな」 「あ、シンさん」 「食器洗いかい?手伝おうか?」 「大丈夫です」 お心は有り難く貰っておきます、何となく早口でそう声に出している間にも、シンさんは何の意図もなさそうな顔をして私の隣へとやってきた。途端に図ったかのようにしょっぱい風が髪を揺らしてゆく。 この人と海が似合うのは前から気付いていた事だけれど、そこに夕日が加わればもう文句無しに絵になる。商人なのに、品のあるひと。それが何故か私の心臓を断続的に攻撃していた。 「リンネは綺麗だなあ」 「何ですいきなり。酔ってるんですか?」 「酔ってる訳ないだろ」 「いやシンさんの顔も夕陽レベルに真っ赤ですけど」 扉の内側での飲み会にシンさんが参加していた事など明白だ。だからこそ真面目に相手をするのも面倒になったので、会話もそこそこにして洗浄を待つ食器の山に集中することにした。…筈だったのだけれど、悔しいことに逆に集中出来なくなった。何故か。 シンさんが私の手、手の甲をおもむろに触ってきたからに他ならない。しかも何だか無駄にいやらしい手付きで。正直背筋が寒くなると同時に鳥肌がたった。 「な、ななんですか」 「リンネの手は白魚のようだな」 「はい?」 「スベスベしていて触り心地がいい」 そう言って当然みたいな顔で私の手を撫でるシンさん。シンさんが怖い。しかも言っていることが二七とは思えないくらいオヤジ臭いのが痛い。 不可抗力として思い切り両手を引っ込めると、まるで何故そんな行為をするのか解せないといった表情を向けられた。なにこういうのはこの世界では普通なの?私がおかしいの? 「いきなり突然セクハラですよ!」 「セク、ハラ…?」 「あ、いやとにかくびっくりしますから止めてください」 「いいじゃないか減るものじゃないし」 「いやいや」 減りませんけどきっと減りますよ、心理的な何かが。 自分でも驚くくらいに速く首を左右に振ってシンさんのエロ親父理論を否定すると、彼はそうかなあと首を捻るものの依然私の背中の後ろに隠した手から目を離してはくれなかった。酔っているのが理由なら百歩譲って許してあげようと思う。一応は。それとも、何かきちんとした理由でもあるというのだろうか。 「わ、私の手、そんなに変ですか?」 「いや変ではないよ、寧ろ美しい」 「ひい」 「でもこんな仕事をしているのに手あれがないから驚いているんだよ」 「あ…!」 シンさんの教え諭すような口調に釣られて、思わず後ろに回していた筈の手を出してまじまじと見詰めていた。彼に言われて初めて、自分がこの人の前ではこの船の乗組員でしかないという事に気付いたのだ。我ながら情けない。 でもそこに気付けば、シンさんの視線も頷けるものになった。大方私は船長の娘とでも思われているのだろう、それなのに手あれはないし日焼けもしていないし船の料理番としては珍しい長髪。私が彼の立場でもきっと疑問に思ったに違いない。 慌てて弁解しようにも無理があったので、仕方無く笑顔を取り繕って真実を口にする事にした。 「実は私、最近船長さんに拾われたんです」 「拾われた?」 「困ってたところを助けてもらって」 「道理で面立ちが似てない筈だな」 「はい」 「で、何に困っていたんだ?」 シンさんの目は詮索というよりは好奇心に光っていた。こんな風に生きるのはきっと楽しいに違いない。なんとなくそんな事を考えた。 「私…捨てられちゃいまして」 「誰にだ?まさか親にか?」 「んー…親、というか私を取り巻く世界に、ですかねえ。気付いたらなんにも残ってなかったんです。その時持っていた鞄と自分の身ひとつで、すごくすごく私、」 心細かったんです。目を細めて言葉を放った私の重い肩に、シンさんは自身の暖かい手のひらポンと置きながらそこで船長に拾われたのかと自分を納得させるかのように呟いた。返事の代わりにこくりと頷くと、目には見えない感謝の気持ちとほんの少しの罪悪感が潮風に乗って海へと還ってゆく。 トリップ、なんて信じてはもらえないだろうから。それに全てを吐露していないだけで、私は嘘は吐いていない。私は確かに、世界に棄てられたのだ。 何だか妙な空気になってしまった甲板の上で、私は再び食器洗いに手を動かし始めた。今度こそシンさんは何も言わず、先程のようなちょっかいも出さずにただじっと私横顔を眺めているみたいだった。 …のだけれど、今日はどうした事か。 静寂も束の間、突然西日に影を作るようにして、巨大な、想像さえ出来ないような「何か」が船に体当たりしてきたのだ。 「な、南海生物だ!!」 見張り番が船内中に響き渡るくらいの声量でわななくように叫んだと同時に、体が、詳しく言えば船体がぐらりと右に傾いた。ああ、この世界って、本当にどうなってるの。 |