「止めなさい、リンネ」


自然と口から出て来た言葉は、どうやら黒いルフの所為で彼女に届きはしなかったようだ。

黒い壁の向こう側で、ゆらりと彼女の肩が揺れるのが分かった。リンネの小さな手の中には、夕陽を浴びてキラキラと輝く小刀がある。まずい、これは、非常にまずい。咄嗟に腕を伸ばしたものの、矢張りルフの所為で上手く伸ばす事が出来なかった。

小さく舌打ちをしてから、もう一度彼女の名前を声に出す。一度は目があったような気がしたが、本当に気がしただけだったのかリンネは何事もないかのようにまた、怒りに満ちた表情でジュダルへと向き直った。反対に私の頭の中は、どんどんと冷戦さを取り戻していっていた。

本当に、大変な事態である。勝算は無に等しい、当たり前だ、相手はあの煌帝国の神官なのだ。それに今の彼女は珍しく感情が昂ぶっているらしく冷戦さを欠いているように見えるし、何よりそう、何が一番危険かって、彼女の周りにどんどんと黒いルフが集まっていっている事だった。

もしかしたら、このままではリンネが。
そんな不安が、否応無しに脳裏を支配する。彼女に限ってそんな事は起きないだろうとは思っていたのだが、どうやらそんな事はなかったらしい。当たり前と言えば当たり前なのだろうが、今だけはそんな悠長な事を言っていられない。

取り急ぎ、握り締めていた眷属器を彼女を囲むように投げる。しかしそれで目当ての黒いルフが消えるかと言えばそうではなく、ただ少しだけ方々に散ったものの、またリンネへと戻ってゆくのだから意味がなかった。ジュダルの馬鹿にしたような笑い声が、耳に障る。視界の真ん中では、リンネがどんどんと黒いルフに体を侵食されているようだった。


どうする?シンを呼びに戻るか?
もしかしたらこの場合、それが一番なのかもしれない。ヤムライハの結界を破って侵入してきたこの少年を止められるのは、少なくともこの国ではシンしかいないだろう。

しかし、そうしたら、リンネは。リンネはほぼ確実に、黒いルフに取り込まれてしまう。

どくん、と、動悸が落ちる音が聞こえた。どうにかしなくては、そう思う時に限って、なんと情けない事か体は上手く動いてくれない。
リンネを助けたいが、仮に彼女ひとりを助けたとして、その後に残るものはなんだ?ジュダルからこの国を完全に護ることが出来るのか?否、そんな筈はない。彼女一人とこの国とを天秤に掛けているようなものだ。重みが傾くのは勿論、もちろん、国でなくては、ならない。

知らず知らずのうちに、口からは短く切ったような空気が漏れ出でていた。このままではいけない。今、私のすべき事は一つだ。乱れた呼吸のまま、一度だけ大きく酸素を肺に取り込む。すると目敏い神官はその私の小さな変化にすら気付いたのかそれともただの偶然か、どちかは分からないが兎に角、その瞬間に彼はにんまりと口角を歪めた。

刹那、憤りに似た赤茶けた感情が、一気に脳へ駆け上がってくる。しかしそれに屈する事は脳内のどこか一部の、冷静に傍観している部分が許してはくれなかった。ゆっくりと、今さっき溜めた筈の酸素を外に吐き出す。

それからはあっという間だった。

彼女の周りがもっともっと負の感情の象徴である黒いルフで覆われてゆくのを視界の端の端で捉えたのも一瞬で、元来た道を走り出す。己の持てる力の全てを脚力に注ぎ込むつもりで、兎にも角にもシンドバッドへの連絡を急ぐ。

こんな時ヤムライハであれば、魔法で何かしらの信号を送れたのだろうか。そう言えば彼女は最近、通信器具とかいう種類の道具を開発しているらしい。もう少し、事件が始まる前に完成されていたなら良かったものを。
そんな意味もない後悔をしながらシンドリア王宮までの道を急ぐ。

走って走って走って、そうやってがむしゃらと思えるくらいに走って行くと、遠く遠くにあった筈の王宮が段々と近付いてきた。行はリンネの歩調に合わせていた為かなり時間がかかったが、今は自分でも驚くくらいの速さである。

ぜいぜいと、大分荒くなってきた呼吸を整えもせずに門へと向かい、私の事を視認したらしい門番からどうしたのかと慌てた声音で問い掛けられる。その言に対し「シンをはやく」とだけ言葉にすれば、その場にいた憲兵が風の如き素早さでシンのいるであろう王宮内へと向かっていった。

はやく、早くしなければ。この国の一部は、ジュダルによって黒く染められてしまう。そんな不安がぐるぐると、頭の中を闊歩する。そしてそれと併せ、もう一つ、考えると脳みその端が痛くなるようなこの気持ちは。


「リンネ…」


彼女は、無事だろうか。無事でいて欲しい。いや、無事でいてもらわなくては。

リンネが調査に行くと行った時の真剣な目が、道中に見せた笑顔が、そしてジュダルへと向けた怒りの篭った眼差しが、私の心臓に音もなく刺さる。ああ、悪い事をした、のか?そんな疑問が頭を過った瞬間、耳慣れた声が普段とはその色を変えて、確かに私の鼓膜を揺らした。


「ジャーファル!」
「シン」
「どうした?何かあったのか!?リンネは?」
「リンネは、」


急を要する事態です、と、そう口にしようとした。しようとは、したのだ。だが、それは叶わなかった。何故か。

理由なんて簡単だ、私たちの背後で、何か、大きな音が爆ぜたからに相違ない。

私の目の前までやってきたシンが、ハッと目を見開く。嫌な予感がした。背筋が凍る、とはまさに今使うべき言葉なのだろう。恐る恐る、だが素早く後ろを振り返る。私の二つの眼は確かに、柱のようにもくもくと立つ黒煙に似た、黒いルフの大群を捉えた。ああ、リンネ。




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