と、いう訳で、問題の港付近の居住区辺りまでやってきた。の、だけれど。


「…あの、ジャーファルさん」
「はい?」
「…いいえ、何でもありません」
「そうですか。…もう着きますよ」


何故か、ジャーファルさんも一緒に来た。政務で忙しいだろうに、「一人で行かせて何かあっても困るのはこちらだ」と言って私について来たのだ。いや、この場合着いて来て下さった、と言った方が正しいのかもしれない。

兎に角、道中は二人で他愛ない話をしながらやって来た。朝議では猛烈な勢いで反対された為、少しぎこちなくはあったけれど、それでも一応きちんと会話は成立していた、と思う。


そして辿り着いた、何度か訪れた覚えのある国一番の港街。けれど視界には、私の記憶とは明らかに違う様相の街が広がっていた。思わず声を詰まらせる。どうやらそれは隣のジャーファルさんも例外ではなかったようで、小さく息を飲む音が聞こえた。


「ジャーファル、さん」
「…はい」
「私の記憶では、ここ一帯は確かとても賑やかで、船が沢山停泊していて、バザールも活気に満ち溢れていて…何より、みんなが旅人達を笑顔で迎えてくれる場所だった…はず、なんですが」


船の出入りが少ない寂れた船着場、商品の置いていないワゴン、皆一様に疲れたような表情を浮かべる街の人々。

まるで魔法にかけられたかのように変わってしまった街に、ジャーファルさんが私以上に心を痛めている事なんて分かっているのに、それでも声を上げずにはいられなかった。

あまりの変化に刮目する私達の、瞬きの回数だけが虚しく積ってゆく。もどかしい。けれど、それ以上に信じられない。ここまで、だったなんて。


「どうやら私達の予想以上に事は進んでいるようですね」
「ジャーファルさん…」
「…とにかく住民たちに話を聞きますよ」
「は、はい」


ついて来いと言わんばかりに背中を向けたジャーファルさんを、ゆっくりと追いかける。普段であればどこからともなく飛んでくるであろうジャーファルさんへの声が消えてなくなった場所で、彼の男性にしては華奢な背中は何だか泣いているようにすら見えた。

本当に、一体、何が原因でこんな事になっているのだろうか。眉根を寄せて考えられるだけ私はまだ、恥ずかしい話だけれどこのシンドリアという国を愛する気持ちの薄い人間なのかもしれない。





ジャーファルさんと共にこの辺りに住む人々の家を訪ねて聞き込みをした結果、分かったこと。それは、とにかく今この街では死人が沢山出ているという事、症状の発症については皆一様に「黒いもやのような物がかかった」と口にする事、大人も子供も同じくらいの人数がかかっている事、その程度だった。

話をしてくれたご老人はまだ発症していないとの事だったけれど、私とジャーファルさんは一応の対策として私自作のマスクのような物を着けていた。これで感染が防げるのかと聞かれたら、それに頷ける訳ではない。あくまでも、気持ち的な部分の処置だ。とは言っても、こちらの世界にはマスクという物は存在しないようで、ジャーファルさんは頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。紐を耳にかけるタイプの口あて、と言ったら目を丸くして驚きつつも装着してくれたけれども。


一通り話を聞き終わった私達が現在向かっているのは、シンドリア港の隣にある海岸である。なんでも、ここは「黒い靄がかかって見える」という症状が度々始まる場所らしい。

もしかしたら、私達もその病気にかかってしまうかもしれない。そうは分かっていても、やはりその海岸へと足を運ばずにはいられなかった。

それは、私がこの辺りに行く事をあれ程反対していたジャーファルさんも同じだったようで。会話もなく、夕陽の所為で仄赤い世界でただ黙々と足を動かす中、ふと前を行く目に優しいクーフィーヤが潮風に押されてふわりと揺れた。


「…リンネ」
「はい?」
「貴方は引き返しても良いんですよ?」
「…なぜ、そんな事言うんですか」


自分の思った事を包み隠さず口にすれば、眼前の背中は僅かに動揺したようだった。けれど生憎今はそれに構うつもりも暇もないので、質問を濁す事も、ましてや訂正することもせずにひたすらにその後ろ姿を追いかける。どうやら段々と砂浜に近付いているらしく、歩を進める度にザクザクというこの場には不釣り合いな軽快な音が生じ始めた。


「…感染するかもしれないのです、貴方の命が掛かっている」
「それはジャーファルさんも一緒でしょう」
「貴方と私とでは違います」
「何が違うって言うんですか?何も違わない」
「貴方は元の世界に帰る場所があるのでしょう?」


それなのに、こんな所で病魔に蝕まれる必要がどこにあるのか。
ジャーファルさんはそう口にした。こちらを振り返った彼の端正なお顔は少し苦々しげに歪んでいて、私は魔法にかかったかのように二の句が継げなくなってしまう。

そんな風に考えてくれている事が、とても有難い。嬉しい、もちろん嬉しい。けれど、その反面すこしだけ、寂しくも感じるのだ。ジャーファルさんさえも、私を「異世界の人間」としてしか捉えてくれないような響きに聞こえてしまって、とても遣る瀬無い気持ちになってしまう。

分かっている、自分がどれだけ幼稚な考えを持っているかなんて。今まで自分とこの世界の人々とを「違う世界」という線で少なからず区切っていたのは紛れもない私である、ということも分かっているつもりだ。けれど、それでも生まれてしまうこの気持ちを、果たしてどうやって処理したら良いと言うのだろうか。


「…ジャーファルさんだって、帰る場所があるじゃないですか」
「確かに、今はそうですが」
「じゃあ、」
「でも、…私の帰る場所は、ここ、このシンドリアですから」


酸素を取り入れる為に伸縮した肺に、嫌に冷たい空気が流れ込んできた。何も言えなくなる。なんでこんなにも私を突き放すんですか?声には決して出す事の出来ない気持ちが、心臓の奥の方からふつふつと湧き上がってくるのをなんとはなしに感じた。

身勝手なのは私なんだろうけれど、痛い、なあ。
思うものの、吐き出せない。吐き出してはいけない。だって今ここで、自分の気持ちを言ってしまっても、きっと彼を困らせるだけだ。

それでも、矢張り。ほんの少しだけ、指の間から水が漏れ出でるように、私の中からぽろりと言葉が溢れた。

ジャーファルさんこそ、予防線を張ってるじゃないですか。

一音一音が連結して言葉に、そして台詞になってしまってから後悔してももう遅い。恐らく今、ジャーファルさんの眉尻が上がった、と思う。見えはしないけれど、何故か確信に近い自信があった。

そして決して喜ばしい事ではないにせよ、私の勘は当たっていたようで、くるりと勢いを付けて振り返ってきた政務官さまは何とも形容し難い表情を浮かべていた。そんな傷付いたような顔しないで下さい、なんて流石にそこまで無神経で狡い事は言える筈もないだろう。

何時の間にやら目的地である海岸は目と鼻の先になっていた。ザク、ザク、一歩踏み出す度に、足の裏に伝わる砂浜の感触が濃くなってゆく。夕陽を浴びて真っ赤に燃える海岸だなんて、全く誰がこんな皮肉めいたシチュエーションを用意したのか。


「リンネ、私は」


ジャーファルさんが険しい表情のまま言葉を紡ぎ始めた、丁度その時だった。私の視界の端に、黒い「何か」が映ったのは。
きっと私は思い切り目を見開いたのだろう、目の前の彼も口を噤み素早く私の向く方角、つまりは海の方向へと顔を向けた。

おかしい、夕陽の赤が、全く目に染みない。


「あれは、もしや…」
「ジャーファルさん?」
「っ…どこかに隠れているのですか、煌帝国神官、ジュダル…!」


ジャーファルさんの緊迫した声音が波に攫われて広がってゆく。その中で一瞬、私の思考回路は凍結した。ジュダルって、あの、ジュダル君?




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -