最初は苛立ちと吐き気に襲われ、一週間程経つとそれは心臓の痛みに変わる。そしてある日、ぱたりと生き絶える。死体には全身に黒くて丸い痣が残る。 妙な噂は、前々から耳にしていた。ただ、それは本当に「シンドリア王宮内でまことしやかに囁かれている噂」程度の認識だった。そう、日本で言えば都市伝説のような位置付けだったのだけれど、最近はそうはいかなくなってきた。 何故かって、ここにきて明らかに、その噂を耳にいれる回数が増えてきたからだ。もしかすると、シンドリア内で何か異変が起こっているのかもしれない。そんな私の、決して良いとは思えない予感は見事に当たってしまったらしい。 「原因不明の伝染病が、シンドリア国内に蔓延し始めている」 今、まさにこの瞬間に、久々に朝議に呼ばれた私に掛けられたシンさんの言葉。どこか逼迫したような口調、いつになく鋭い眼差し、テーブルの上でキツく握り締められた拳。どれをとっても、彼がふざけている訳ではない事が伺えた。 真剣な面差しのシンさんを見つめ返す傍で、どこまでも立派な王様だなあと感心する。いや、そんな悠長な考えは場違いだな。なんせこの場にいる八人将の面々だって、皆いつもの柔和で暖かな表情から険しいそれへと変わったくらいなのだから。 「その話っすけど、港近くが酷いみたいで、俺が見に行った時なんか貿易船が通常の半分以下でしたね」 「私は、魔法で対処出来ないかと調べてもいるのですがまだ…」 「兵士の中にも動揺が広がりつつあるな」 「どうしたら感染するのかっていう法則性も見つからないし」 「…被害者数も、今のところ断定は出来ませんが相当なものだと」 「何より、国民の不安が扇動されています」 それぞれが深刻な表情で発する言葉を、一言一句聞き漏らさないように集中して受け取る。因みに言えば、この不可解な病気の症状は噂の通りであるらしい。つまりあの噂は都市伝説でも何でもなく、本当の事であったのだ。 苛立ち、吐き気、心臓の痛み、全身に黒い痣。 そんなの今まで、聞いたことがない。けれど確かに存在して、シンドリアを、私が尽くそうと決めた優しい国を蝕んでいるのだ。なんとか、しなくては。そのためにシンさんは、今日私をここに呼んだのだから。 「どうだリンネ、お前から見て心当たりのある病気なんかないか?」 「はい、私が未熟だからかもしれませんが、こんな症状は初めて聞きました」 「そうか…」 「ですから、」 「ん?」 「ですから、街に出て実際に確かめたいと思います」 なんとなく、確信があった。私がシンドリアに貢献するとしたら今なのだと。 もしかしたら、私などには太刀打ち出来ないような病気なのかもしれない。けれど、それでも、自分の目で患者さんの様子を見て、耳で息遣いを聞いて、頭で原因を考えて。そうやって、出来る限りの事を自分がこなしてゆきたいのだ。いや、そうしなくてはいけないのだ。 「だが、リンネも感染するかもしれない」 「防護はしてゆきます。…まあ、効くのかは分かり兼ねますが」 「それじゃあ駄目だ。危険すぎる」 「行かせてください、シンさん。行きたいんです」 「……」 「それはなりません」 黙り込んだシンさんの代わりに、厳しい目で口を開いたのは腕組みをしたジャーファルさんだった。怒気すら感じられる彼の口調に怯まなかったと言えば嘘になってしまうけれど、それでもここで折れるのはどうしても嫌で真正面から向き合う。普段よりも濃いグレイが私の瞳の中でゆらゆら揺れている様子が、何枚かのガラス板を通したかのようにぼんやりと見えた。 他の八人将の視線が、もれなく私に突き刺さるのが否応無しに感じられる。斜め前からのヤムライハちゃんなんて、今にも潰れそうな表情で私に視線を寄越していた。驕りと言われるかもしれないけれど、きっと皆、私を心配してくれているのだろう。有難い。とてもありがたいけれど、でも、私は揺るがない。助けられない恐怖を知っているからこそ、自分の命を掛けてでも尽力したい。 自分自身、自分の中にこんなにも強い気持ちが芽生えた事に少しだけ驚きもあった所為か、気付けば小さな微笑みを漏らしていた。それを拭うこともせず、もう一度、力を込めて言葉を紡ぐ。いかせてください。 「ならない、と言っているでしょう。貴方は立場のある人間なのですよ?」 「立場なんて関係ありません、私は皆さんの役に立ちたいんです」 「…寝言も程々になさい。そもそも貴方が行ったところで、治療法が見付かる可能性も低いのです」 「方法は、探さなければ見付かる筈もありません!」 「自分の身も守れない貴方が、偉そうな事を言わないで下さい」 空気が、ぴたりと止まる。確かに肌で感じた。その数秒後、一瞬にして静寂に包まれた空間を壊したのはシンさんで、彼はジャーファルさんの名前を一喝するような強さで口にした。するとジャーファルさんはハッとした表情を浮かべ、次いで私からに向けていた視線を静かに外す。 本当に、本心が出たんだろうなあ、と思った。勿論彼のその台詞は大きな音を立てて私の心臓に刺さったけれど、残念ながら正論である。だからだろうか、涙は出て来なかった。ただ、自分の無力さに、胃がムカムカする。弱過ぎる自分に苛立ちのみが積もる。弱いと分かっているのに、行きたい気持ちも抑えられない。 どうしたら良いのだろうか。どうしたら私は他人に迷惑をかけないで済む?どうしたら私は後悔せずに次の朝日を浴びる事が出来る? 恐らく、いや確実に、二つの希望を叶えるのは無理に近いこと。それでも、ない頭で考えるのだ。 「…行かせてやろう」 不意に、そんな声が響いた。 暫くの間沈黙に支配されていた部屋には、その声音はとても軽やかで不釣合いなものに思えて、思わずその声の主の方へと勢い良く顔を向けてしまう。視線の先に映るシンさんは、何故か少し嬉しそうに微笑んでいた。 「シン!貴方まで何を」 「いいじゃないかジャーファル。リンネの気持ちを汲んでやろう」 「ですが」 「ジャーファル、過保護だぞ」 変わらない光を携えるシンさんの瞳に捉えられる。焦ったようなジャーファルさんの「そんな事ありません!」を軽く横目でいなした彼は、口調同様に至って明るい表情で拳の上に顎を乗せた。そんな些細な仕草からでさえ、ある種の包容力に近い何かを感じて、静かに目を閉じる。ああ、そうだ、私だってこの人の役に立ちたいんだよなあ。 「後悔するのは嫌なのだろう?行ってきなさい、リンネ」 |