「リンネ…?」


ジュダルくん、という真っ黒で怪しい雰囲気の少年が文字通り闇に「消えた」あと、自室が目と鼻の先であるという時に響いた声。それはもうすっかり耳慣れていて、心地良いと思える彼の声音だった。

こんな所で会うだなんて、今日はどうした事か。思いながら暗闇の中で後ろを振り返れば、曲がり角から上半身だけ覗かせた彼の姿が視界に飛び込んでくる。彼が手元に掲げる灯りのお陰で、ジュダル君の時のように認識できない恐怖に襲われる事は免れた。


「ジャーファルさん、」
「こんばんは。どうしたんです、こんな夜中に」
「あ、ちょっと書類を仕上げてて」
「そうですか、お疲れ様です」
「ジ、ジャーファルさんもお仕事ですか?」


片腕一杯に書類を抱えた姿を見ればまだ仕事中だということは一目瞭然なのだけれど、このままだと会話が途切れてしまいそうで慌ててそう取り繕った。そんな私の動揺を知ってか知らずか、ジャーファルさんは少しだけ疲れたように目を細めてからこくりと頷く。可愛い、とか思ったらなんだか負けな気がする。いや、もう思ってしまったけれども。


「シンが仕事を投げ出すもので」
「それは何と言いますか…お疲れ様です」
「ええ…、リンネ」
「はい?」


ジャーファルさんが話の途中で突然怪訝な表情になるものだから、返事の声が思わず裏返ってしまった。少しだけ火照る頬を両手で押さえて隠そうとしたものの、そんなことせずともこの黒の中じゃ分からないという事に気付いて、ホッと息をつき両手をまた宙に返す。それと並行してゆっくりと小首を傾げると、赤っぽい光りにぼんやりと誇張されるジャーファルさんも、眉尻を落としたままで静かに口蓋を開いた。

けれど、そんな風に美しいとすら思える所作で生まれた彼の台詞は、私の胃をひっくり返さんとするものだった。「誰かと、会っていたのですか?」ジャーファルさんはそう言って、険しい表情を見せたのだ。


「…は?」
「だから、誰か別の人間と会ったりしたのではないですか?」
「い、いえ…」


少しの逡巡の末に私の選んだ選択は、そんな事はありません、と白々しくも口にすることだった。このジャーファルさんがどんな意味合いを込めて今の質問を投げたのかは皆目検討が付かないけれど、ジュダル君がここの廊下にいたことは言ってはいけない気がしたのだ。別になにも、ジュダル君の肩を持ちたい訳ではない。けれど、やはり。やはりここで真実を言ってしまったら、私の中で巨大な城を築きつつあるジャーファルさんが崩れてしまいそうな、そんな気さえして。

だから私はただ、静かに首を振った。目の前のジャーファルさんの瞳が、すうと細められる。瞬きも忘れてそれを見詰めると、やがてまた、美しいダークグレイがまん丸の形を成した。

彼の中で、私はどんな風に像を結んでいるのだろうか。聞くには余りにも詩人的な想いに、自分自身奥歯で笑いを噛み殺す。ジャーファルさんの水晶体に映る私も、患者さんの水晶体に映る私も。全部同じに決まっていると言うのに、一体私は何に期待してそんな戯言に脳みそを痺れさせているのだろう。自分の事ながら不可解である。

胸中で溜息を吐きながら再び政務官さまのお顔を見上げた。仄かに赤い光と上手い具合に調和した彼の銀髪は、クーフィーヤの存在下にも関わらず確かな色彩を放っている。気付けば私の唇からは、「綺麗」そんな短い感嘆が漏れていた。

本当に勝手に外に出て行った感覚のその二文字は、どうやらジャーファルさんにとってはあまり嬉しいものでもなかったらしい。そんな事はありませんよ、にべも無くそう返されて、少しだけ言葉を失ってしまった自分がいた。いや、例え私でなくとも、この暗闇の中、意中の異性から声音から伝わる程に冷めた返答を頂けば言語機能なんて忘れてしまうに違いない。結局、人間なんてそんな小さな生き物なのだ、なんて。

暫く無言で固まっていると、ジャーファルさんはハッとしたように一度大きく身動ぎをして、それから私の顔を覗き込んできた。なんの前触れもなく近付いてきた美しいお顔に、これまた心臓の内側から固まってしまう。


「すみません。不躾な態度をとってしまいましたね」
「ふぇ」
「リンネ?」
「い、いえ!何でもありませんし、おきになさらず!」


千切れんばかりに首を振って、ますます深くなるジャーファルさんの眉間のシワは見て見ぬフリをする。今、確実に私の脳細胞が死んでいっているなあ、と至極間抜けなことを頭の隅っこで考えながらもブンブンと横に振り続けていると、不意に、カランカランなんて乾いた音が廊下に響いた。何かが落っこちたらしい。

その何かは、まるで図ったかのようにジャーファルさんの足元へと跳ね転がってゆき、最終的には彼の右足にぶつかった。闇の中の躍動も、跳ねる度に響いた金属音も、ようやく止まる。ただ、暗がりの所為でそれが何であるかは分からなかった。


「…ああ、これは」
「何でした?」
「ふふ、リンネ、貴方が落とした物ですよ」
「え?」
「はい」


そう言って手渡されたのは、控え目に光る髪留め。
夜だからか屈むと衣擦れの音が鮮明にきこえるなあ、とかそんな下らない事を考えていた私にとっては予想外の物で、思わず口をぱっくり開けてジャーファルさんを見詰めてしまった。暗いから、暗いから見えていないことを祈る。

手のひらの上にのせられたそれを一瞥すれば、灯りのお陰もあってかそれが紛れもなく私の髪留めであると、というかそれが例の謎のプレゼントの髪留めであると確認する事が出来る。一応保険として自分の後頭部に手をやると、そこにあるばずの金属の凹凸が無くなっていた。やはり私の頭から落ちたらしい。もしかしなくとも、強く頭を振り過ぎたのだろう。

ひとつだけ息を吐いた。そこには自分への呆れやら今日の疲れやら色々な成分が混在していたけれど、一番はジャーファルさんの微笑みからのものである。最近の私は本当に毒されつつある気がする、と何とも失礼な事は喉の奥にしまって、すみませんと一言詫びを入れる。構いませんよ、気を付けなさいね。ああもう、何でそんなに柔らかい口調で言うんだろう。確信犯にしか見えない私もどうかしているんだろうけれど。

なんとはなしに悶々としつつも髪留めを付け直す。金属特有の冷んやりとした感触がすこし、頭皮に心地よかった。髪留めには酔い覚ましみたいな効果があるようだ。


「ありがとうございました、ジャーファルさん」
「…それにして正解でした」
「は?」
「…やっぱり貴方によく似合いますね、その銀色は」


不覚にもまた、固まってしまった。ジャーファルさんの顔を見やれば、こちらが思わず赤面してしまうくらいに優しく微笑んでいる。え、ちょっと待って、もしかして。

それにして正解?やっぱり、よく似合う?
思考回路が段々と熱を帯びてきた。まさかとは思うけれど、この髪留めの送り主は。


「じゃあ私はもう行きます、お休みなさい、リンネ」
「え、あ、おやすみなさい…」
「では、また」


最後ににっこりと微笑んでから背を向ける辺り、なんだかんだ言って相当主の悪影響を受けていると思う。いや、今はそんな事言っている暇は無くて。
少しだけ撫で肩の後ろ姿に向かって、声にでき得る限りの「仕事、頑張ってください」を送る。いまは真夜中で、ここは疲れた食客たちのねむる緑射塔だとかそんな事は都合よく、綺麗さっぱりと飛んでいた。心臓がはやい。頬が熱い。

背を向けた彼は、一体どんな表情で白羊塔に戻ってゆくのだろうか。今夜は寝付けなそう、なんて皆まで言わずとも分かることが、確かな熱をもった私の身体を巡ること巡ること。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -