日が落ちた後のシンドリアというのは、寂しいというよりも寧ろ美しい。昼間の活気溢れる雰囲気は静かに濃紺の闇に溶けてゆき、星空の下心地良いくらいの静寂に包まれる。それが、シンドリアの夜だ。初めこそこの息をする事さえ躊躇ってしまいそうになる宵闇を怖いと感じていたものの、今となってはもうこの国に無くてはならない存在だと思っていた。

ここの暗闇は、深いのに優しい。もしかしたら、こんなにも美しい夜が存在しているお陰でこの国の人々は明るく素直で朗らかに生きてゆけるのかもしれない。国民の小さな苦しみを全て、懐の深い闇が吸い取っていってくれるのでは無いだろうか。なあんて、私は何時の間にこんなロマンチストになったんだか。とにかく、私がそんな風に考えてしまう位にこの国の夜は美しい。


明日の会議に使うという、妊娠の兆候と一般家庭における適切な分娩処置についての書類を死に物狂いで書き上げ、クタクタになった足で自室へと向かう途中のこと。
僅かに吐息を漏らしながら口角を小さく上げて、月を見上げる。と、その時ふと、どこからか笑い声が聞こえてきた、気がした。けれど、辺りを見回しても誰もいない。

気の所為、か。
色々と考えを巡らせるのも面倒に思えて、愚直過ぎる自己完結をしてしまうことにした。なんせここは闇にラッピングされた緑射塔の廊下。徹夜が多いと聞く文官達が仕事をする白羊塔でもあるまいし、人がいるだなんてまず無いだろう。


「ねえ、そこのあんた」


無い、ないない。何だか若い男の子の声が聞こえてきた気がするけど、気がするだけだ。きっと空耳だそう信じたい。だってここは深夜二時の緑射塔なのだから。誰かいるだなんてそんなの、在り得ない。


「アンタだよ、あんた。聞こえてねえの?」


おかしい、確かに男の子の声が聞こえる。少しだけ掠れていたが、聞き惚れてしまいそうな綺麗な声だった。けれど可笑しいことに、その美声の主の姿がどこにも見当たらない。ただ、まるで暗闇と一体化しているかのように、その声だけが確かな存在感と共にこの廊下に木霊するのだ。

純粋に、恐怖を覚えた。見えざる誰かから発される艶やかな声音が、脳みそをじわじわ侵食してゆくような感覚すら覚える。足が竦む。完全にその場に立ち止まって、大きく息を吐いた。と同時に、恐怖と緊張で早鐘を打つ心臓を無理矢理奮いたたせる。


「誰か、いるんですか」
「ハア?いるから話し掛けてんだろ」
「…じゃあ、誰?」
「オレ?俺は、」


す、と闇から「何か」が出て来た。いや、「何か」なんて言っては失礼かもしれない。きちんとした細身の人型だったからだ。

まるで突然光出したかのように、闇の中からぼうっとその姿を私の真正面に白く浮かせた赤い目の彼は、目を見開く私をしたり顔で見詰める。口角が驚く程綺麗な弧を描いていた。今までは気配すら感じる事が出来なかったはずなのに、今はもうこの漆黒の中であるにも関わらず彼の表情の機微が分かるのだから驚きだ。一体彼は、どんな魔法を使ったと言うのだろうか。


「ジュダル」
「ジュダル?」
「俺の名前だよ」
「ああ」
「アンタは?」
「リンネ、です」
「へー、変なナマエ」


突然現れた上に初対面の異性に変だとか言う君も相当変だけれど、という返答はすんでの所で飲み込んだ。代わりにその今まで見たことのないような真っ赤な瞳をまじまじと見詰める。カラーコンタクトかと思ったけれど、その二秒後にこの世界にコンタクトなんてないという事を思い出した。

それにしても綺麗な顔をしている。まだどこかあどけなさも残している事からして、歳は十五、六くらいだろうか。それにしては露出の多い格好をしているけれど、まあ三年後ぐらいには恥ずかしくなって止めるだろう。特にヘソ出しは、若気の至り以外の言葉が見つからなくなるに違いない。

兎にも角にも、とんだ美少年がいたものだ。感心しつつも小さく呼吸を整えたその瞬間。ヒヤリ、そんな感触を首筋に覚えた。何かと思って顎を引っ込め確かめようとしたものの、ジュダルと名乗る少年の「死ぬからやめれば」に私の動きはピタリと止まらざるを得なかった。彼から発せられる「死ぬ」には何故か妙な信憑性が感じられて、浮ついた思考が一瞬にして掻き消え、全身の毛穴が逆立つのを感じた。


「え、っと、あの」
「ねぇ、アンタはここの何?」
「なに、とは?」
「まんまだよ。何なの?バカ殿の部下?それとも愛人?」
「え…いや、私はこの宮廷の医務室に勤めている者ですが」


バカ殿、というのはシンさんの事だろうか。だとしたら、愛人だなんてとんだお門違いな考えである。部下、というのは強ち間違いではないけれど。

正直に自分の立ち位置を述べて、目の前で私に何か、恐らく凶器の類だろうけれど、冷たい物をあてがう美少年を伺い見る。目が合ったら逸らすべきか否か、なんて考えていたけれど、幸いにして彼はその整ったお顔を思い切り顰めて目を瞑っていた為にそれは杞憂となった。けれど、今度は何故かそのまま動かない。怖い。理由は分からないけれど、またもや単純な恐怖に襲われる。静か過ぎる暗闇の中は、居心地が悪いを通り越して私の肌に冷たく刺さった。


「おっかしーな」
「は?」
「なんかアンタからは、人間じゃない気配みたいのを感じんだよな。なんか隠してねえ?」
「い、え…べつに何も」
「…マジ?」


その短い問いには、嘘を吐けばお前は命を落とすんだぜみたいな意味合いが込められているのだろう。
そうは分かっていたけれど、私はゆっくりと頷いて肯定の意を返した。

何だかこの人には、トリップの事を話してはいけない気がしたのだ。彼がどこから来て何をしている人間なんて分からないけれど、それでも。いや、だからこそ、この人には言えない。そう、直感的な部分で判断したのだ。

白兎のそれと酷似した赤い目を見つめながら頷いたからだろうか、彼は少しだけ怪しむような表情で私の全身を隈なく凝視したものの、最終的には私の言葉を信じてくれた様だった。それに伴って私の首筋からも、冷んやりとした命の危機が音も無く離れてゆく。


「つまんねーの」
「そ、ですか」
「リンネだっけ?アンタもっと色気があれば詰まん無くねーのにな」


あっけらかんとした態度で肩を竦める美少年に、言葉が返せなかった。それは別になにも、色気が無いと言われたからではない。いや、確かにその言葉に対しても少なからずショックを受けはしたけれど、私に色気がないなんて今に始まった事でもないのだ。そうでなくて、私はある一点に視線を奪われしまったのだ。

美少年が手にする、金属製の鋭い切っ先の凶器。それである。
もしかしなくとも今まで私の首筋に当てられていた物はその杖にも似た形の凶器だったのだろう。そう考えると、背中が粟立った。ああ、生きてて良かった。


「おい、聞いてんの?」
「え?ああいや、色気なんて生まれてこの方発した覚えはないです残念ながら」
「ぷ、お前なにそれ、悲しいヤツだな!」


少年に対してきっちり芽生えた恐怖心から焦って紡いだ言葉は、思いの外彼の琴線に触れてしまったらしい。先程とは打って変わって腹を抱えて笑う美少年に、年相応の笑い方も出来るのかとほんの少しだけ安心した。不思議な子だ。怖いけれど。


「あーオモシレ。殺さなくて正解だったか」
「ジュダルくん…は、」
「ハア?ジュダルくん!?」
「え、いやダメでした…?」
「……別に。で、何?」
「あの、どこの子なのかなあ、と」


恐る恐る聞いてみた。
もし地雷だったら今度こそ私の命は無くなるのかな。というかそもそもこの平和第一のシンドリアで何でこんな体験をしているんだろう私は。

存外気の抜けた事をぼやぼや考える私の正面で、美少年のジュダルくんは少しだけ考える仕草を見せた。私を殺すかどうかの思案じゃない事を願おうと思う。


「…どこの子なんだろうな、オレ」
「へ?」
「よく分かんないから、取り敢えずバカ殿と組みたいヤツって事で」
「シンさんと?」
「んなとこ。じゃ、オレ行くわ」


ああそうだ、今の事は他言無用だぜ?
そう付けたしてから、ジュダル君はくるりと背を向けた。その背中は何故か少しだけ寂しそうで、私の心臓も少しだけ締め付けられる。ただ、だからといって彼を引き留めるような言葉も勇気も、私には持てなかった。代わりに、ジュダル君の背中に向かって小さく手を振る。見える訳でもないのに、掌に「またね」を込めた。だって、この少年は、こんなにも、どこか危うい。


「あ、今度会う時には色気出しとけよ、まあ無理だろーけど」


生意気な無理難題を残した黒い少年は、当たり前のように闇に溶けて見えなくなった。




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