「国籍、ですか」

ああ、リンネに今一番必要なものだと思うんだが。
面食らう私とは正反対に、朗らかな笑顔でそう言ったシンさんは朝日を味方につけ恐ろしくキラキラ輝いている。後光がさす、というのはこういう事なんだなあとしみじみ思いつつも、神々しい主の隣に佇むジャーファルさんの顔色を伺った。

ジャーファルさんとは彼がおかしかったあの日から、約一週間振りに顔を合わせた。もちろん、何だか緊張に似たそわそわした感情を持て余してしまう。けれど、どうやら変に意識してしまっているのは私だけなようで、緑のベールをきっちりと被った彼は平生となんら変わらぬ澄まし顔でシンさんの後光の余波を浴びていた。

ほっとするような、詰まらないような。
自分の中でそんな相反する二つの気持ちを抱えながら、ジャーファルさんに意見を求める為の視線を送る。が、ゼロコンマ何秒というくらい神速で逸らされてしまった。…訂正、冷静沈着な政務官さまも、少しは意識してくれているらしい。


「リンネはもう、この国の人間だと俺は思っている。なあ、ジャーファル」
「…ええ、まあ、そうですね」
「まあ無理にとは言わないが、国籍がないと不便な事も多いだろう」


言いながら、何かを思い浮かべるようにうんうんと頷くシンさん。十中八九彼は、この間私が薬の処方を拒否された場面を脳裏に浮かべているに違いない。有難いと同時に、何だか申し訳なくなる。大した力も無い私に居場所をくれるだけでなく、何かと気を遣ってくれるだなんて。感謝してもしたり無いよなあ、と、改めて自分の運の良さを実感した。

小さく微笑めば、シンさんもジャーファルさんも安心したような表情を見せてくれる。なんだろう、私こんなに幸運な人間で良いんだろうか。
幸せな気分になる。けれど、ただ、一つだけ疑問が、というよりは綺麗な朝日に靄がかかるような、そんな感覚に近い不安があった。


「…いつ居なくなるか分からない私が、国籍なんて、」


本当に良いんですか。
当たり前のように輝く二人の顔を交互に見つつ、遠慮でもなんでもない、紛れもない本心からの言葉を宙に浮かべる。瞬く間もなく窒素と酸素の海に溶けてゆくそれらを、シンさんは何故か少し悲しげな表情で、ジャーファルさんは長い睫毛を静かに伏せて受けとってくれたようだった。

二人とも、絵になる。けれど、きっとこの美しさは絵には出し切れない。そんな確信に似た思いを奥歯で噛み締めながら、二人の返答を待つ。予想はしていたけれど、やはり先に口を開いたのはシンさんだった。


「俺は、いいと思う」
「…何故、ですか?」
「例えリンネが消えてしまったとしても、国籍は消えないからだ」
「え…?」
「国籍が消えない限り、リンネがシンドリアの人間である事にも変わりはない。つまり、どこの世界に行こうと、ずっとこの国の国民なんだ。」
「……」
「つまり、国籍があれば貴方がシンドリアの国民であったという事を記録に残せる訳です」


私の沈黙をどう解釈したのか、ジャーファルさんは丁寧かつ簡素に纏まった理由を噛み砕いて教えてくれる。シンさんはと言えば、「国民であった、では過去形になってしまうだろう」なんて隣のジャーファルさんに対して細かい所の修正を求めていた。

本当に、優し過ぎる人達だ。呆れるくらいに暖かくて、深い。
二人の有難い言い分に私の首か自然と縦に振れてしまうのなんて自然過ぎることで、沈黙を守っていた筈の唇もいつの間にか小さく動いていた。


「ありがたい、です」
「そうか」
「はい…お願い、しても良いんですか」
「だから、いいと言っているでしょう?」
「…はい。」


また、言葉に詰まった。けれど今度の沈黙は、不安や疑念が原因のものではなく、ただ純粋に嬉しくて、これ以上発すればいい言葉が見つからなかったのだ。

どうやら二人もそれを感じ取ってくれたらしく、清々しい朝の空間にシンさんのより陽気な声音が響く。じゃあ、早速つくらせねばな。釣られるように笑みを浮かべた瞬間、またもやジャーファルさんと目が合った。結果、やはり顔を逸らされた。ただ、先程よりは幾分かゆっくりと、柔らかな笑顔で。


正直、狡いと思う。そうやって私の心臓を少しずつ食んでゆくのは、とても。
そんな私の精神的な動揺なんてお構い無しに、シンさんと問題の政務官さんは私の国籍についてサクサクと話を進めてゆく。するとシンさんが、あ、と何かを思い出したような声をあげた。王様のくせに、口がまあるく空いている。私が笑える立場じゃないのは十も承知だから、別に何を言うわけでもないんだけれども。


「国籍を作るならいっそ、誰かの縁者にしてしまうのはどうだ?」


ぽっかりと開けられたお口から飛び出してきたのは、そんなあり得ない言葉の羅列だった。は?と、当たり前の事ながら私とジャーファルさんの驚きが重なる。

けれど、流石はシンドバッド王とでも言えば良いのか、彼は私たちなどには目もくれずに、勝手な選択肢を作り始める。俺の妹か、ヤムライハの姉、マスルールの姉も…アリだな。って、いや待って待って。


「アリな訳ないですよシンさん」
「そうですよ、しかもよりによって貴方の妹など」
「え、ジャーファルさんそこですか?」


何の気なしに宣うシンさんも、何だかズレた問題点を険しい顔で口にするジャーファルさんも、もうよく私には分からない。というか、私みたいなただの人間がこんな立派な人達の心の内を推し量れるはずはないのだ。

多分、ここまで来たらもう二人に任せた方が良いのだろう。素直に丸投げしよう。
そう思い、曖昧な笑みを携えて小さく小首を傾げた。まあ二人は既に、本人の私は蚊帳の外で口論に近い話し合いを行っていたんだけれども。


「俺の妹じゃ何故駄目なんだ?」
「何故って、あんたはこの国の王ですよ!?」
「それが何だ?」
「突然王様に妹がいました、なんて言える訳がないでしょう!それこそ国際問題です」
「そうか…?まあ、じゃあ、お前の妹というのは?」
「…は?私の?」
「中々に妙案じゃないか?なあリンネ」
「え?えっと…」
「ダメです」
「へ?」
「それだけは断じてなりません、断じて」


何時になく語気を荒く言葉を紡ぐジャーファルさんに面食らう私の隣で、シンさんも訝しげに眉根を寄せていた。でも、まあ、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。異世界から来た人間と戸籍上だけとは言え兄弟になるだなんて、私だったら絶対嫌だもんなあ。少し、寂しい気持ちに駆られる。強気で首を横に振る彼の様子が、いやに色濃く網膜に焼き付いた。いたい、なあ。

他人の心の内なんて分かる訳はないと、そう知っているのに、ジャーファルさんの瞳の奥が覗けたらどんなに良いかと切に願った。




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