イライラしている。こめかみに手を当てて、気を落ち着かせる為の溜め息を断続的に吐いて、極めつけに眉間にはこれでもかというくらいにシワを寄せて。これがまさに「苛立ち」という感情を体現していると言うに相応しい、と思う程にイライラしている。…私でなく、ジャーファルさんが。


「…あ、あの、ジャーファルさん、」


恐る恐る、今月の経費の報告書を手にしながら名前を呼んでみる。するとジャーファルさんはピクリと耳を揺らして、それからたっぷりの余裕を持ってこちらに目を向けた。これは確実に、ああん?みたいな雰囲気ではないか。怖い。私、何かいけない事をしてしまったっけ。

何時もの彼も威圧的ではないとは言えないけれど、それでも今日は度が過ぎている、と思う。なんと言っても私を見る目が厳しいのだ。例えるなら先端に毒が塗られた弓矢というところだろうか。とにかく鋭くて、うん、ああやっぱりイライラしている。


「あの、書類、出来ましたので…ど、どうぞ」
「…はい」
「えっと、あのジャーファルさん」
「はい」
「…な、何かお気を煩わせる事でも…?」
「…貴方がそれを言いますか」


え?と思わず短い声が出た。
溜め息混じりで冷淡なジャーファルさんの言葉が、意図せずとも心臓の深い部分に刺さる。

私、やはり私が何かしてしまったんだろうか。何だろう。この間渡した書類のミスとかそういう類のものならば幾つか心当たりがあるけれど、それくらいの事でこんなに怒りを露わにする人ではない。ただ、それ以外のことと言うと全く身に覚えがない。脳内に覚えている限りの自分の素行を並べてみるも、やはり何が原因かというのは分からなかった。分かっているのは、知らない内に私は何かすごい事を仕出かしてしまっていたのだ、ということくらいだ。ああ恐ろしい。

どうしたものかと首を捻ろうとしたその時、リンネ、不意に自分の名前がそのお怒りのお口から漏れ出でてきた。勿論、棘のある不機嫌ボイスという要らない特典付きだ。こ、こ、怖い。
ジャーファルさんに対しては特別な好意紛いの気持ちを持っているだけに、とても恐ろしかった。それと同時に、ある気持ちが私の脳の一角を支配する。

この人には嫌われたくない。だからこそ、私は不安で早鐘を打つ心臓を押さえ素早く顔を背けた。名前を呼ばれたのに、とても失礼な事をしているとは承知している。けれど、目を合わせる勇気がなかったのだ。自分の情け無さにはほとほと呆れる。

ジャーファルさんに頭を向けるという形で視線の合致を回避しようと試みると、ぴたり、と彼の動きが止まった、気がした。実際は顔を合わせていないのだから見える筈はないのだけれど、それでも私は確かに、ジャーファルさんがこちらに向かって伸ばしかけた腕が綺麗に制止したことを感知したのだ。


「…?ジャーファル、さん…?」
「…リンネ」
「は、はい」
「…こっちを向かないでください」
「は?」
「…いいから」


顔を思いっ切り背けたままの会話が、ぽろぽろと重力に逆らうように浮かんでゆく。彼の言葉の真意が分からずに、ただわざわざ意味を聞き返すのも憚られて、大人しく顔を窓へと向けたまま静止した。

いち、に、さん。その程度。その程度ではあれど、言ってしまえば三秒間の沈黙が私と政務官さまの緑色のベールの間に座り込んだ訳で、すこしだけぎこちなくなってしまうのは必然的であって。なんて言えばいいのだろう、気まずいというか、もう目を合わせられません。

でもでも、ずっとこのままでいる事もやっぱり色々と可笑しいと思うので、掠れる声を無理矢理に絞って、「あの」ともう一度後方に向かって声を掛けた。


「何です?」
「えっと、…もう、向き直っても?」
「…止めてください」
「は?」
「私はもう白羊塔に戻ります」
「あ、…はい」
「だから、私が出て行くまでそのままでいてください」


静かだけれど、有無を言わせない口調。
その所為で私は、内心で眉をひそめつつも、ただ小さな肯定の言葉を返しす事しかできなくなってしまった。体はジャーファルさんの方向を向いているというのに顔を正反対に背けているからか、実はだいぶウエストのあたりがキツくなっているのだけれど。無論そんな恥ずかしい事は口が裂けても言えない。

暫くの間、もう少しだけキープだ自分、なんて一見ふざけてみえるような鼓舞をして何とか堪えていると、いそいそとジャーファルさんが遠退いてゆくのが気配で分かった。そのまま静かに扉が開く音がして、ジャーファルさんのやけに芝居がかった「では、また」が空気を伝わって私の鼓膜に届く。後ろ向きの私は、静かに頷いた。


「…な、んだった、んだろう…」


音もなく閉まった扉を背に、ひとりそうやって頭を抱える。時たまジャーファルさんは、特に最近の彼は少しおかしい。というより、言動の意図が不明瞭で私のような人間には計り知れない。

ようやく顔を正常な向きに戻すと、たった今彼が出て行ったばかりのが視界の中央に乗り込んできた。なんだか、寂しいなあ。なんて、きっと私はもう引き返せないところまできてしまっているのかもしれない。まずいことだ。非常に。いつかはこの世界から消える私が、そんな。

後ろ髪を纏めて留めてくれている、例の美しい髪留めに何となく手をやりながら、自分の中で抱えきれない思いがこれ以上大きくなりませんようにと無駄な願いを掛けた。





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