「リンネ」 「…ジャーファルさん」 「聞きました。お疲れ様でした」 「…はい」 「…本当に疲れていますね」 夕焼けの中で困ったように小さく微笑んだジャーファルさんの手のひらが、ゆっくりと頭頂部に乗せられた。シンさんみたいだなあ、なんて脳の端っこでぼんやり考えながらも、胃が鉛のように重い感覚を身体全体で静かに味わう。 助けられなかった。助けたいと思っていたのに、小さな命を助けることが出来なかった。 その事実が、私の胃の中で暴れまわっていた。まるで彼女が味わった痛みを知れとでも言うように、重く重く、私の身体を何かの金属に変えてしまうかのように。 でも、そうなるのも仕方が無い。私の所為だったのだ。私の力不足の所為で、あの子は死んでしまったのだから。私みたいな小さな人間の所為で、大切なひとつの命が失われてしまった。 医療を志した時から、患者さんが死んでしまう場合があることは覚悟していた、はずだった。でも実際に命が消えていってしまうところを目の当たりにすると、矢張り辛い。心臓が張り裂けそうなくらいに苦しい。 特に、彼女なんてまだこの世界に生まれて一時間も経っていなかったのだ。本来なら誕生した瞬間に、自分の存在を知らしめる為に泣いて、幸せな母親の腕に包まれて、これからの人生の一歩を踏み出すべきだった。なのに、肺に酸素が取り込めず泣く事も出来なかった彼女は、生んでくれた母親に触れる事もなくただ苦しい時間だけを過ごして死んでしまった。 ううん、私が殺してしまったも同然だ。 私がもっとしっかりしていたら。もっと素早く状況判断が出来たら。そうしていたら、もしかしたら彼女は助かっていたかもしれないのだ。他の誰でもない私が、殺してしまったのだ。 考えれば考える程頭の奥がズキズキと痛む。けれど、それでも思考を止める事はしなかった。いや、臓器を焼きそうな勢いの罪悪感がそれは許してくれなかった、と言った方が正しいかもしれない。 無意識のうちに、頭を抱える。 そうなれば当然、今まで私の頭の上に存在していたジャーファルさんの右の手のひらの行き場が無くなる訳で、彼のその白く骨張った手が静かに離れてゆくのを何となく感じ取った。 「リンネ」 「……」 「リンネ、顔を上げなさい」 「…ごめんなさい」 「……」 「私の覚悟が足りなかったんです。私が殺してしまったようなものです。私、どうやって償えば…」 「お願いだから、顔を上げてください」 リンネ、優しい声で紡がれた自分の名前が肩の上で柔らかく跳ね返る。あまりに暖かな響きで釣られるように顔を上げると、そこには夕陽を背負いながらも目尻を下げるジャーファルさんの姿があった。慈しみに似た何かを感じさせる様で崩れた私の目の前に立つ彼が、音もなく目を伏せる。睫毛一本一本がまるで白金のように静かに輝いて、ただ単に綺麗だと思った。 「リンネ、誰も貴方を責めたりはしませんよ」 「…そんなはずありません」 「いいえ、責めません」 「…なんで言い切れるんですか」 「…言ったでしょう、貴方を責める事は、私が誰にもさせないと」 「でも、あの時とは違います」 「違いません」 「違います」 「違いなどありません!」 いつになく強い口調で放たれた言葉に、思わず肩が小さく揺れた。恐る恐るジャーファルさんの顔色を伺うと、伏し目がちのままではあれど、今までとは打って変わって険しい表情を浮かべている。怒らせてしまったらしい。少し怖い。 単純にそう思った反面、当たり前だとも思った。 私は責められるべきなのだ。罵声を雨あられと掛けられてしかるべきなのだ。優しく慰めてもらってぬくぬくとしたベッドの中で睡眠をとるだなんて、そんな幸せな事態になってはいけないに決まっている。 息の詰まる空気に、拳を握り締めることで何とか対策を立てていると、不意に視線を上げたジャーファルさんと目が合った。 「違いはありません」 「…でも、」 「貴方の味方になってやりたいと、私がそう考えていることに違いはないのですから」 「…っ、でも」 「でもでも煩い」 そんな台詞が鼓膜を通った瞬間、私の視界が真っ白になった。何が何だか分からず瞬きをする。その白は彼の官服の色だ、私は抱き締められているのだ、と、そう気付いたのは背中に回された腕が熱を帯びて、私の肌を浸食するかのように厳然として存在している事を理解してからだった。 咄嗟に声を出そうとしたものの、喉が掠れて可笑しな音しか出てこない。押し返そうと思っても、腕に、身体全体に力が入らない。きっと今の私ならば蟻にも負けるだろう、と酔狂とも取れてしまうような事を考えた。罪悪感に染め上げられた心臓が煩い。痛い程、うるさかった。 「…ジャーファルさん」 「誰も貴方が殺しただなんて思ってはいません」 「…そんなこと」 「あります。」 私の言葉尻を強引に奪ったジャーファルさんの緑のベールがふわりと頬を掠める。 死んでしまった子の母親も、貴方には感謝していると言っていました。 凛としていて、思わず聞き惚れてしまいそうになる声音で付け加えられた台詞には驚いた。そんな、だって、彼女は私が殺してしまったというのに、感謝なんて。 有り得ない、というのが正直な気持ちである。そしてそれを素直に口に出せば、何故か背中に回るジャーファルさんの腕の力が強くなった。心臓が沢山の要因から早鐘を打つのがわかる。このままどんどん鼓動が早まって、私の寿命も縮めばいい。そう思った。 「分からず屋な貴方に、ひとつ問います」 「は…?」 「己の力不足だったと嘆いて懺悔するだけで自分も苦しんでいる気になる愚かな者と、事実を受け入れ罪悪感を覚えながらも、それを払拭する為にも事実を礎にして努力しようと意志を持つ者」 果たしてどちらが、賢明ですか? 密着していた身体を少しだけ離して、その深いグレーの瞳で私を真っ直ぐ見据えながら、切々とした声音で。 そうやって紡がれた彼の質問というやつは、私の心臓に確かなひびを入れた。 「苦しんでいる気になる」私はそんな気持ちになっていただけなのだろうか?被害者面しようとしていただけだったのかもしれない。それで何が救われる訳でもない、ましてや小さな命が戻ってくる訳でもないのに。 「罪悪感、というのはとても大切な感情です」 「……」 「けれど、行き過ぎたそれは、私には最早ただの自己主張にしか感じられないのです」 そう言ってジャーファルさんは、固まる私の頭をゆっくりと撫でてくれた。暖かい手のひらが、私のズレていた何かをじわじわ溶かしてゆく。 ごめんね、助けてあげられなくて、ごめんね。そんな罪悪感は、確かにある。一生付き合ってゆく物だとも、分かっている。 でも、前進しなくてはいけないのもまた確かなのだ。彼女の死で止まってはいけない。そう教えられた。同じ気持ちにならないように、もっと勉強してもっと経験を積んで、いつか笑顔で、彼女に花を添えられるように。私は強くならなくてはいけないのだ。 ジャーファルさんがくれた言葉たちが心臓にこびり付く罪悪感と混ざって、淡い銀色となって血液と共に体内を巡ってゆくのを、確かに感じた。 |