元気そうで何よりだとシンさんは言った。皆さんが良くしてくださるお陰ですと私は返答した。

これも、よそよそしい受け答えなのだろうか。
ぼんやりと考えつつシンさんの表情を伺い見た。彼はジャーファルさんとは違って私に関して何の違和感も感じはしないらしく、通常運転としか言いようのない爽やかな笑みを浮かべて頷いていた。もしかしたらこの人も、お腹の中ではジャーファルさんのように思っているのかもしれないけれど。

けれど、どちらにせよ彼は政務官さまとは違いその違和感を直接ぶつけてくるような事はない。それが何となく分かっているからこそ、私もこうして気兼ねなく話をする事が出来るのだ。狡い話であるけれど、実際人間なんてそんなものだ。


「ああ、そう言えばリンネに教えようと思っていた事があったんだが」
「え?何をです?」
「あったんだ、リンネの前例のような事例が」
「…え?」


いかにも次いで、という雰囲気の中で受け付けた言葉に、一瞬だけ私の体の芯が鉄になった。硬直するしか選択肢の無かった私とは真逆に、シンさんは矢張り至って普通の口調で、俺も驚いたんだけどな、と言ってうんうん頷きながら独りで何かを自己完結させている。

ちょっと待って欲しい。
異世界トリップなんていう呆れるレベルでファンタジーな事例を発見して、それで何故こんなにも冷静なのだろう。シンさんは、変なところで真面目だ。それともこんなにも動揺してしまう私が可笑しいのだろうか。動揺、というか、興奮に近いかもしれない。嬉しいような、悲しいような。

どこまでも曖昧な気持ちを持て余しながらシンさんを見やると、私の遺伝子ではどうしたってなり得ないだろう美しい黄金色の双眸と引き合うように目が合った。やっぱり、冷静だ。


「古い文献で偶然見つけたんだが、どうもリンネと同じような構造の靴を履いていたらしい」
「同じような構造…」
「この間見せてくれた、不思議な生地のアレだよ」
「スニーカー、ですか」
「そう、それだ」


スニーカーを履いていたのなら、恐らくそれは確かに私と同類の人間だったのだろう。けれどスニーカーということは、古い文献と言ってもせいぜい五十年くらいのものだろうか。色々と考察を交えながら、大人しくシンさんに耳を傾ける。そんな私の態度を見てから、心なしか彼の口調に見え隠れする感情が色濃くなった気がした。


「で、文献に寄ると、だな」
「…はい」
「それは男性で、何年間かこの世界にいたらしい」
「いた、って…」
「そうだ、つまり彼は何年かの滞在の後、自分の世界に帰ったようだ」


まあ、本当にもと居た世界に帰る事が出来たのかは誰も知りようがないが。
そう言って、シンさんは屈託のない気楽な笑みを零す。

何でも、文献によれば、彼はある日突然まるで魔法にかけられたように人々の前から姿を消したそうだ。周りは皆驚いたが、彼の恋人だけは驚かなかったらしい。分かっていた、と恋人は人々に言った。彼は透明人間、とも言ったらしい。よく意味が分からない。けれど文献にはそれ以上の記述はないということだ。

今度自分でも読んでみるといいと言って、シンさんはその文献の題名を手元にあった書類の端に書いて、そしてその部分だけを、なんと破って手渡してくれた。しかも見たところ、判子待ちの生きたものだ。廃棄以外の書類を破る人間なんて初めて見た。というかこれは、許されるのだろうか。びっくりして手を出すタイミングを逸してしまったのも仕方の無いことだろう。


「どうした?いらないのか?」
「いや、そうじゃなくて、あの」
「ん?」
「書類、いいんですか…?破れたら無効になったり…」
「ああ、これは良いんだ」
「え?」
「これは後でシャルルカンに直接渡す資料だから、別に少しくらい破れていても気にしないよ」


なんせシャルルカンだからね、と何とも相手には失礼な事をさらりと言ってのけたシンさんを見、これが本当に出世する人材なんだろうなあとそこはかとなくそう考えた。
包容力があって、温厚なのに鋭くて、快活な人。そして時たま掴み所がない、というのもシンドバッドという人間の魅力なのかもしれない。まあ、今更この人の魅力を並べ立てても、何が起こるわけでもなく、ただより一層シンドリアへの思いを深めるだけなのだけれど。

自分はもうこの人に、いやこの国に捕まってしまっているのだと考えたら何故か柔らかな笑いが込み上げてきた。確実に歪につり上がってしまうだろう口元を素早く右手で覆うと、シンさんの頭の上にあからさまなハテナマークが浮かぶ。


「どうしたリンネ?気分でも悪いのか」
「大丈夫です、平気ですよ」
「そうか?…じゃあ、まあ、書類云々は置いておくとして、だな」
「はい」
「リンネは恐らく帰る事が出来るんだと思う。それが何時かは分からないが、これは確実だ」


目元を優しく崩したシンさんの言葉が、気管を真っ直ぐに抜けて意に落ちてゆく。いつの間にか握らされていた紙の端切れを一瞥してから、お返しのように表情を崩して大きく頷いた。それは何となく、分かっていました。そう言うとシンさんは一瞬酷く驚いた顔をして、それから何かを思い出したように「ああ」と余韻の残らない声を上げる。今日の空気には何時もよりアルゴンが多い気がする、と根拠も何もない事をぼんやりと考えた。


「そう言えばリンネはいつか俺達に、消えるまでよろしく、と言ったな」
「…覚えてらしたんですね」
「まあな。あの時は"死ぬまで"という意味だと思っていたんだが…なるほどな」


リンネはちゃんと俺達に、ヒントを与えてくれていたんだな。
そんな私に甘い言葉を貰ったものの、どう答えたら良いのか分からず返答に詰まった。

あの時はただ、急激に悲しくなっただけだったのだ。消えてしまう日が、必ずいつか来ると、体のどこかで分かってしまったから。だからこそ、虚飾を抱えたままだというのに、寂しさの気持ちだけで曖昧な事を口走ってしまったのだ。今はもう、こうして秘密を打ち明けたからまだ良かったものの、なんて軽率だったのだろうと後悔はしている。

ごめんなさい、謝罪の意味も含めて目の前の私の雇い主に小さく頭を下げる。すると彼は私の突然の礼に不意を突かれたらしく、何時もより少し上擦った声で今一度の「どうした?」を吐き出した。


「いえ、ただ、すごく有り難いと思って」
「…俺が、か?」
「勿論シンさんもですけど、この国自体が」
「…そうか」


身を乗り出して嬉しそうに目尻にシワを作ったシンさんの大きな手のひらが、頭の上に静かにのる感触。どこか懐かしい感覚を温度として頭皮で確かに享受していると、無意識のうちにまた頬が緩んだ。今度は右手で隠したりはせずに、そのまま笑顔を表に塗り広げる。

前にもこんな事ありましたよね、と口にすると、あの時もリンネは感謝していると言っていたな、と歌うように言葉を流して微笑んだ。
確かあの時はまだシンドリアに来たばかりで、何もかもが手探り状態だったんだよなあ。そんなことを考えながら、手元の紅茶のカップに視線を落とす。


「まあ、あの時リンネが感謝していたのはジャーファルに対してだったけどな」
「そうでしたね。それで何故か、シンさんまで私に感謝してくださって」


言いながらカップを口元に持ってゆく。シンさんも同じ場面を思い出しているのだろうか、豪奢なランプが下がる斜め上に視線をさまよわせつつ、小さく唸り声に似た音を出していた。そして、シンさんの唇がゆっくりと形を変えた時。

まさにその瞬間、部屋に緊迫感溢れるノックの音が響いた。

ノック音で緊迫感なんて、と思うかもしれないけれど、本当にどこか張り詰めた音だった。そしてどうやら私のその感覚は間違ってはいないらしく、一瞬でシンさんの顔から笑顔が消える。何事だ、とシンさんが低い声で問いかけると、扉の向こうの、恐らく兵士であろう男性の野太くも焦ったような声音が隙間から飛び込んできた。


「ご歓談中失礼致します!リンネ様に伝達です。今し方、緊急の患者が医務室に訪れたので至急戻って来て頂きたいとの事です!」


緊急、という言葉が、やけに耳についた。それは何もこの単語の持つ意味の所為だけでなく、扉一枚隔てた先の男性の声が、あまりにも必死だったから、である。弾かれたように立ち上がる私の背中を押すように、シンさんは「リンネ、早く行ってやりなさい」と険しい表情を見せた。





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -