「今日は風が強いなあ」 ぶわりと、決して軽やかとは言えない効果音を付けて私の髪と衣服を膨らませてゆく暖かい風の行く方向を眺めて、一度大きく息を吸う。王宮内の薬草園に向かう為に、横殴りになる風の中で庭を横切るようにして足を動かしていると、どこからか私の名前を呼ぶ声が聞こえた。この鈴を転がしたような高い声は、きっと。 考えるまでもなく分かる声の主の可愛らしい顔を脳裏に浮かべた時には、背中に大きく柔らかな衝撃を受けていた。 「リンネちゃーん!おはよ!」 「ピスティちゃん、おはよう」 「こんな朝からどこいくの?」 「薬草を取りに行こうと思って」 後ろから私のお腹に回された細くて白い腕をゆっくりと剥がしてやってから振り向けば、今日も輝かんばかりの可愛らしさで快活に微笑む美少女ときちんと目が合う。今日も本当に可愛いなあ、さすが十代だよなあ、なんて願望にも似た事を考えながらもついその美しい金色の頭に手を乗せて、ゆっくりと撫でる。 するとまた彼女は天使顔負けの笑顔で返してくれるものだから、もう可愛らし過ぎてどうしようもない。妹にしたい。マスルール君が弟で、ピスティちゃんが妹だったらきっと姉さんは世話しか焼けないだろう。 「私も一緒に行っていい?」 「ん、つまんないと思うけど」 「いいの!」 「じゃあ一緒に付いて来てくれたら、私も嬉しいな」 「やった」 嬉しそうに笑顔を作るピスティちゃんの金糸をもう一度だけくしゃりと撫でて、元のようにまた歩き出す。 ピスティちゃんときちんと知り合ったのは、1か月程前のこと。彼女が怪我をした鳥を医務室に連れて来たことがきっかけだった。 ピスティちゃん自体のことは以前から話に聞いたり見かけたりもしていたけれど、実際に正面から言葉を交わすと予想以上に可愛らしい少女である事が分かった。それからというもの、ヤムライハちゃんが同じ八人将同士ピスティちゃんと仲が良いこともあって、三人でお茶をしたりと何かと仲良くさせてもらっていたのだ。 六歳も年が離れているからか、感覚的には友達というよりも妹の方が近かったけれど、それはそれでとても新鮮で嬉しくて、仲良くなれて良かったなあと思っている。たとえ、この天使ちゃんの本性は魔性で結構な姉さん気質だとしても。だとしても、少なくとも私には甘えてくれるのだから、何の問題もないではないか。恐らく。 ピスティちゃんの歩幅に合わせて無駄な事を考える間にも着実に歩みは進み、気付けばもう庭園の前まできてしまっていた。促すように私の手を引っ張ってくるピスティちゃんに癒やされつつ、何の気なしに庭園の扉の中に入る。外とは違って風もなく穏やかな空間は鼻を突くような薬草の匂いに満ち満ちていて、なんだか意味もなく安心した。 うわあ、植物がいっぱい! そんな何とも彼女らしい事を言って両手を上げる隣のピスティちゃんを、今度は私がこちらだよと手を引っ張る番だ。自分より一まわり程小さな手のひらを握って、太陽の日差しのお陰か柔らかい光と温度に包まれた庭園を真っ直ぐに歩いてゆく。 お目当ての薬草の前にしゃがみ込めば、目に優しい緑色を阻むかのように綺麗で明るい金髪が視界一杯に広がった。ほんとうに澄んでいて綺麗な目。ギリシャ神話の登場人物がそのまま世界に出てきてしまったかのような、そんな美しさを纏う目の前の少女に小さく微笑みかけて、どうしたのと小首を傾げる。 「これって何の葉っぱなの?ただの草じゃないの?」 「ああ、これはツワブキっていう薬草で、炙って貼ると打ち身や火傷に効くんだ」 「じゃあ、あそこの小さい木は?」 「あれは金銀花。消毒に使うの」 「へぇ…リンネちゃんって凄い、お花の事沢山知ってるね」 「ありがとう、まあ仕事だからね」 素直に褒めてくれるピスティちゃんが嬉しくて、気を抜けば際限なく緩んでいってしまいそうな頬をなんとか押し留める。心の中で一礼をしてから手元のツワブキのうち幾つかを摘み取って、持ってきていた四角い箱に入れた。その様子をじいっと見詰めているピスティちゃんは、果たして何を考えているのだろうか。という疑問は、口に出す間もなく解決することとなった。 彼女の形の良い唇が、静かに動いて、言葉を発した。 「なんか、おんなじなんだねぇ」 「え?」 「植物も動物も、同じように私たちを助けてくれるんだね」 「そうだね。薬草なんて、私達の怪我を治す為に自分の命をくれるんだもんね」 「…うん。よし!私ももっと沢山の生き物たちと友達になろうっと」 リンネちゃんも今度一緒に鳥さんに乗って遊びに行こう。 そう言って笑顔を顔一杯に広げたピスティちゃんを見て、つられて笑みが漏れない人間なんてこの世にいるだろうか。優しくて、自然にちゃんと感謝の心を持っていて。思えばこの国はそんな人々ばかりである。なんて美しくて素直な国なんだろう、なんて今更過ぎる気もするけれど。 あまりにこの空間が心地良くて、声を上げて笑おうとしたその瞬間。ゆっくりゆっくりと、扉が開く音がした。 なんか、この感じ、もしかして。 素早く後ろを振り返って、入ってきた人物を確かめる。逆光の所為でぼんやりとした輪郭が認識できる程度だったものの、それは予想通りの人物だと即座に分かった。それと同時に、隣のピスティちゃんが一瞬にして体を強ばらせるのも、なんとなく分かった。 「げげ、ジャーファルさん…!」 「げ、とは何ですピスティ。朝議を無断欠席したと思っていたら、こんな所で油を売っているだなんて」 「ひ…」 「覚悟は出来ていますね?」 あくまでにこやかな笑顔で、背中に般若をしょったジャーファルさん。これこそデジャヴ、というやつか。3か月前に体験した恐怖が背中を駆け上がってゆくのをひしひしと感じた。自分が矢面に立たされている訳ではないのに、全身が竦む。やっぱりジャーファルさんはこの国の陰の支配者であると、いつか考えた事を再認識した。 というかそれより、ピスティちゃんの震えが半端じゃない。こんな幼気な少女に、彼は一体どんな恐ろしい仕打ちをしてきたのだろうか。想像がつきすぎて、思わず生唾を飲み込んだ。 「ほら、ピスティ?」 「は、はーい…?」 「貴方は今、何をすべきですかね?」 「ぶ、部隊に指示与えてきまーす!じゃあねリンネちゃん!」 今度ほんとに一緒に遊ぼうね、とそんな捨て台詞を残して脱兎のごとく走り去ってゆくピスティちゃんの背中は、扉をくぐりみるみるうちに小さくなっていった。 残されたのは当然、私とジャーファルさんで。色々な気まずさから目を合わせられずにいると、何を思ったか、彼が植物の間を縫うようにして私の元へと歩み寄ってきたではないか。私、何かしたかな。ピスティちゃんを連れ回した事、怒られるだろうか。取りあえず、恐ろしい。 「お早うございます、リンネ」 「お、おはようございます…」 「?何でそんなに萎縮しているんです?」 「ご、ごめんなさい!ピスティちゃんは会議があるのに連れて来てしまって…!」 「…は?」 「え?」 ぱちくりぱちくり、瞬きを二度程してからジャーファルさんの瞳をちらりと伺いみる。彼のダークグレイは、今日も例外なく美しかった。外の風は相も変わらず強いらしく、ベールから覗く乱れた前髪を整えるジャーファルさんの白くも骨張った手の甲に、何故だか視線を奪われる。 その数秒後、どちらともなく笑いが零れた。 |