少しずつ、少しずつ。
そう自分に言い聞かせながら生活し始めて、十日が経った。もう傷は殆ど癒え、残すは腕の刺し傷のみとなっていた。肉体的にはほぼ元通りと言っていいと思う。

それに、この短い期間で精神的にも、少しずつとはいえ前進できていると感じていた。仕事復帰はまだシンさんやジャーファルさんが許してくれないけれど、今となっては複数の男性に囲まれても笑顔を作れるまでになったのだからかなりの進歩だろう。シャルルカンにも大分慣れた。

それに加え、事件からもうすぐ二週間、まだ妊娠の初期症状とみなされるような兆候は出ていない。良かった。けど、まだ安心出来るような時期ではない。もし子供が出来てしまっていたら、そう考えると未だに震えが止まらなくなるものの、その都度ヤムライハちゃんとの約束を思い出してなんとか正気を保っていた。だいじょうぶ。もしもの時には彼女が、私ごと殺してくれる。

よくよく考えれば、例え本人の希望であれ殺人は殺人であって、もしヤムライハちゃんが私を殺したら何らかの罪に問われてしまうのかもしれない。にも関わらず、私の意志を尊重して死にたい時には殺してくれると言ってくれた彼女には、感謝してもしきれない。優しいヤムライハちゃんやマスルール君、シンさん、それにジャーファルさんに支えられながら私は今生きているのだろう。

それは確かである、けれど、実は今はそんな感傷に浸っている場合ではない。

理由は、わざわざ私に会いに部屋までやってきてくれたシンさんが開口一番に放った言葉にあった。紫獅塔に引っ越すぞ、と。彼は部屋に入るなりそう口にしたのだ。


「え、ちょ、え?」
「実はもう部屋は用意してあるんだ」
「は、えと、紫獅塔に私が、ですか?」
「当たり前だろう。何か不満か?」


何食わぬ顔で宣ったシンさんに、開いた口が塞がらなかった。

今の私の部屋、つまりこの場所なんだけれど、ここは緑射塔の端に位置していた。無論私は食客ではない為、本来ならば文官や武官の人達の暮らす別塔、または国内の自宅から通わなくてはならない。けれど私がここに来た時は丁度部屋に空きが無かった事、それとシンさんが「リンネは他の者たちとは違うのだから」などと頭の痛くなるような台詞を口にした事もあって、食客達の暮らす緑射塔の部屋を使わせてもらっていたのだ。

それが何がどうして、紫獅塔に移る事になってしまうのか。皆目見当が付かない。


「なんで、私が紫獅塔に?」
「なんだ、嫌なのか?」
「嫌というか、私なんかが住んで良い区域ではないと思うんですけど…」
「何故だ?」
「なんでって、だって紫獅塔ですよ?」


紫獅塔がどういう場所であるかという事くらいは、私にも分かっている。シンさんにごく親しい臣下、それこそ八人将たちや側近の人々以外は足を踏み入れる事すらままならない場所で、そこに入る為に今も血眼になって訓練したり働いていたりする者が沢山いる事も、この4か月という期間で学んでいた。

なのに、私のような人間がこうも易々と紫獅塔に迎え入れられて良いはずはないだろうに。
何時もと変わらぬ強い光に満ちたシンさんの瞳を視界の端に捉えつつも、目を閉じて一呼吸置く。何故、こんなにも私を気にかけてくれるのか。逆に聞きたくなった。


「私は、駄目だと思います」
「駄目?嫌ではなくて駄目なのか?」
「はい。お誘いは有り難いです。でも、お断りさせて下さい」
「だが、俺はリンネが紫獅塔に来る事を望んでいるし、ジャーファルも先日それに同意した。それでもか?」


シンさんの眉根が中央に寄ってゆくのを何とは無しに眺めながら彼の配慮に対しての感謝と、私の心臓の隅にぽつんと浮かぶ、未だに素性を明かす気にもなれない事に対しての罪悪感とを右の拳の中で握り締める。こんな私を信頼してくれるシンさん。ありがたくて眩しくて申し訳なくて、ああこの人に私もついて行きたい、と改めて実感した。

でも私は、甘えてはいけない。何せ私はまだ、全くと言って良い程シンドリアに尽くしていないのだ。それに、元々緑射塔にいる事自体が勿体無いくらいの厚遇であるのに、それ以上の待遇を受ける訳にはいかない。というより、受けてはいけないだろう。


「私は、まだシンさんやこのシンドリアという国に尽くしていません。だから、今はこんな不甲斐ない状態ですけど、早く復帰してこの国の為に働かなくちゃ、シンさんにも誰にも顔向け出来ないと思うんです」


きちんと前を向いて、その美しい黄金色を憚りながらも見据えて。そうやって、自分なりに誠意を見せて言えば、彼は人格者らしい笑みを目元に広げてやれやれと肩を竦めた。どうやら、私の言い分を聞き入れてくれるらしい。


「分かった。リンネがそう言うのなら良いだろう」
「我が儘言ってしまって、すみません」
「いいさ。リンネはリンネなりに信念を持ってやってくれているというのも分かった事だしな」
「ありがとうございます」
「ああ。ただこれだけは覚えておいてくれ」


逞しいその身を乗り出すようにしたシンさんの目尻に、優しい皺が刻まれる。それが何だかこそばゆくて、自分の服の裾を思い切り握らずにはいられなかった。

本来、評価というのは自分でするものではなくて、人にされるものなんだ。だから幾ら自分がこの国に貢献したと思っていても他人が足りないと言えば足りないし、逆もまた然りな訳だ。分かるな。

まるで幼稚園児に教えるように、ゆったりと流れる小川と同じくらいのスピードで優しく噛み砕かれた彼の言葉はどうやら、私に自分の価値を自分で決めるなと言いたいようだ。何だか子供扱いされている気がして癪に障らなかったと言えば嘘になるけれど、穏やかな低音で紡がれた矛盾のない言葉たちに刃向かう気になれる筈もなくただきちんと首を上下に動かした。

すると私の同意を見届けたシンさんは、嬉しそうな表情で「だからリンネ、お前の評価は俺やジャーファルがするからな」と付け足す。つまりさっきみたいに、自分はシンドリアに全く尽くしてないんです、なんて自分で言うなと。暗にそう諭しているのだろうという解釈に落ち着いた。

まあ、だからと言って先程の言葉を撤回する気も、シンさんはじめ皆さんの厚意を受けて紫獅塔に移る気も無いのだけれど。ただ今後は、人前で自分を評価する事は控えようと思う。


「じゃあシンさん、いつかシンさん達が、私がこの国に十二分に貢献したと思った時にまた誘って下されば嬉しい、です」
「ああ。無論その時は快諾してくれるんだろうな?」
「はは、もちろんです」
「なら良いさ。楽しみにしているよ」
「はい。…シンさん、」
「ん?」
「ありがとうございます。今の私に、居場所を下さって」


捨てないでいてくれて、こんなに暖かい人達に囲まれる環境をくれて、ヤムライハちゃん同様本当に感謝しても仕切れない。油断すれば止め処なく溢れてしまいそうな仰々しい感謝の言葉たちを、無理矢理胸に仕舞い込んでひとつ大きく息を吸う。


「私は、あなたが大好きですよ」


現代日本人は内向的だと言われる。きっと私も、何か月か前まではその最たるものだったのかもしれない。けれどどうだ、生きる世界が変われば、こんなにも積極的な台詞を吐き出せるのだ。
結局は慣れだよなあ、なんて、何故か痺れる頭で考えた。こうやって素直に気持ちを言うのは、何だか気持ちがいい。素敵だ。

ただひとつだけ困ったのは、もちろん深い意味は有りませんと付け足す前に、何を勘違いしたのやら彼が私の脇腹にするりと手を添えてきた事だった。七海の女たらし、と称されるに相応しい輝きを灯した黄金色の瞳と甚だしく上がった口角に失笑してしまったのを、果たして私は上手に隠せていただろうか。






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