酷く拙く感じられたノックの音と共に、ジャーファルさんは部屋へと入ってきた。事件から5日が経っていた。

久し振りに見たジャーファルさん、というよりは久し振りの男性という存在に、身体が無意識のうちに小さく震え出す。なんせその間、毎日私を訪れてくれるヤムライハちゃん以外にこの部屋の扉を叩く人はおらず、今だって扉が開くまでは壁一枚隔てた場所にジャーファルさんがいるとは露ほども考えてはいなかったのだ。


「ジャーファル、さん」
「こんにちは。具合はどうですか?」
「あ、ええ、まあ」
「…どうしました?」


覇気の無い受け答えを見てか、それとも私の表情が余程露骨に拒否の色を見せていたのか、どちらなのかは自分では分からないけれど、私の行動が小首を傾げるジャーファルさんに何らかの不快感を与えたのは間違いない。申し訳ない気持ちになった。

けれど、小さな罪悪感を抱くと同時に、怖かった。意味もなく、男という性を持った人間がただ闇雲に恐ろしい。情け無い事に私は心も体もそんな造りに変わってしまったらしかった。その証拠に、今まさに言葉を紡ごうと開いた唇でさえぶるりと震えた。


「ごめ、んなさい…」
「はい?」
「わたし、今、男性に会うのは…久し振り、というか」
「……」
「ジ、ジャーファルさんが嫌だ、とかそういう訳では、ないんですけど」


ごめんなさい。
上体を起こして二度目の謝罪に合わせてお辞儀をすると、私の言葉を聞きながらゆっくりとこちらへ歩を進めていたジャーファルさんの足はピタリと止まった。我が儘で本当に、申し訳なく思う。でもやっぱり、怖い。こんなようでは傷が癒えても勤務に復帰できないのに。なのに、こわい、という感情は私の根底に根を張ってしまったようなのだ。

その事に対して心中で自己嫌悪をするのと、ジャーファルさんがその美しいグレーの瞳を少しだけ歪めて彼にしては柔らかく言葉を発したのと。それはら本当に同時だった。そして私の脳みそは、自分に落胆する傍らで彼から送られてきた言葉の不可解さに一瞬だけ動きを止めた。


「それを気にする必要はありません」


と、ジャーファルさんは言ったのだ。彼にしては酷く不明瞭な発言に、思わず小さく首を捻ってしまう。


「どういう、意味ですか?」
「だから、リンネ。貴方が私を男性だと思って警戒する必要はない、という事です」
「え?」
「私、実は女ですから」
「…え?」


今度は脳内だけでなく、身体まで硬直してしまった。

ジャーファルさんが、女性?確かに他の男性よりは少しだけ女性っぽいけれど、それでも背格好も声も男性で。でもやはり、女性でも適わないくらいに美しいのも否めない。もしや、本当に女性なのだろうか。

突拍子もないカミングアウトに思考回路が可笑しくなってしまいそうになったが、寸での所でそれは食い止められた。あれから一歩も動かずにいるジャーファルさんが、不快な音は漏らさずにクスクス笑った事で、である。
ああ、嘘か。騙された事へのショックよりも、何故か安堵の方が大きかった。何故だろう。
理由は不明だけれど、ただ、今のジャーファルさんの微笑みで自分の約二メートル先にいる彼への緊張感が幾分か、気休め程度ではあれ確かに軽減された事だけは分かった。もう、と小さい声で漏らせば、彼は私の目を見て本気にするとは思わなかったと楽しげに口にする。別に本気にしたくてした訳ではないのだけれど。


「すいません、でも、今だけ私は女で構いませんよ」
「はい?」
「貴方が男性に恐怖心を抱いているのは分かりました。当然と思います。でも私は今日は貴方にどうしても伝えたい事があって来たものですから、それが伝えられるなら別に今は女として認識されても構いません」


一度、二度、瞬きをしながら彼の言葉を咀嚼する。要約すると、私に近寄ってもいいですか、というところだろうか。彼の表情と合わせて、遠回しな台詞を自分なりに解釈した。

それが果たして正解なのかどうかは自分では判別が付けられないけれど、取りあえずゆっくりと一度、頷いてみる。ジャーファルさんなら、大丈夫。心臓にそう言い聞かせる為でもあった。すると、彼はにこやかに微笑んだかと思えば直ぐに止めていた筈の足を動かし始めた。どうやら私の解釈は、あながち間違いではなかったらしい。

それにしても、ジャーファルさんがわざわざ今だけは女でも良いとすら言ってまでも伝えたい事とは何だろう。余程重要な、それこそ使い物にならない私を解雇するとかそんな死活問題に発展しそうな事なのだろうか。もしそうだったら、どうしよう。

少し身構えて彼の次の言葉を、白いシーツに埋もれて待つ。心なしかその綺麗な銀色の髪が、私を嘲笑う為にゆらゆら揺れているような気がした。


「単刀直入に言うと、私は貴方を疑う事を止めました」
「…え?」
「だから、これからは私も貴方をシンドリアの人間として信用します」


飄々と言ってのけたジャーファルさんに、返す言葉が見つからなかった。

今日の彼には驚かされるばかりである。自分は女だと言ったり、私を信じると言ったり。一体その美しい瞳の奥深くでは、どんな逡巡があったのだろうか。
不思議に思うと同時に、今さっきの自分の心配が杞憂であった事にほっと胸を撫で下ろした。今この状況でシンドリアに見放されてしまったら、私は多分生きてはゆけないだろうから。

静かに息を吐いたその瞬間に、ジャーファルさんは返事を返す事などすっかり忘れていた私の脳を揺らすように、腰を折ってゆっくりしっかりと顔を覗き込んできた。途端に全身に、悪寒とも熱とも言えない電流が駆け巡る。こわいのと、恥ずかしさと。双方が私の中で威嚇し合っているのが何となく居心地悪く感じられて、思わず思い切り視線を逸らした。

するとジャーファルさんは私が男性への恐怖心からそんな行動を取ったと勘違いしたらしく、返事が無いから不思議に思っただけで怖い思いをさせるつもりはなかったのですがと至って丁寧な口調で謝ってくるのだから参る。そういう理由で視線を外した訳ではなくて、いや確かにそれも少しはあるのだろうけれど、でも。自分自身でも言いたい事がごちゃまぜになってよく分からない。とにかくシーツの端をぎゅっと握って、小さく頭を振った。


「そう言えば、わたし、も、」
「え?」
「私も、ジャーファルさんに伝えたい事が、ありました」
「貴方が私に、ですか?」
「はい」
「何をです?」
「…本当に有り難うございました」


あの時、助けにきてくれて。
そう付け加えれば彼は少しだけ目を細めて、それから弱々しく微笑む。なんとなくだけれど、憐れまれているような気がした。

それでも頭をしっかりと下げると、程なくして私の頭にはジャーファルさんからの大きな溜め息が降ってくる。これが彼なりの他人の勇気付け方なのだ、とぼんやり理解してしまう辺り、伊達にこの王宮で2か月を過ごしていないという事だろうか。そんな無為な考えを頭に巡らせつつ視線を戻せば、笑っているのに泣き出しそうなジャーファルさんと目が合った。国の政務官さまも、こんな表情を人前で晒すのだなあ、なんて。


「…あの日、貴方に言えなかった言葉があります」
「言えなかった、ことば?」
「はい。本当に言いたい事、というのは中々口には出しにくいですから」
「確かにそう、ですね」
「…思い切り、泣きなさい。と、あの時貴方に言ってやりたかった」
「……」
「だから今、言います。リンネ、悲しいのなら思い切り、辛いのなら声を上げて泣きなさい」


切々とした表情で送り出されたジャーファルさんの声が、私の胸に刺さる。ずぶずぶ、深く深くに音を立てて。

その傍らでふわりと吹き込んできた風が、彼の銀糸を優しく揺らした。その姿が本当に綺麗でどうしようもなくて、思わず涙が出てきてしまいそうになった。ジャーファルさんの言葉があまりに暖かくて響いたからとか、そういう訳ではない。ただ単純に、神々しいとすら思えるくらいの彼の美しさに泣きたくなったのだ。

思い切り泣きなさい、と言うけれど、私は本当に泣いても良いんだろうか。

何故かそんな疑問に襲われて、それでもジャーファルさんは未だに私の側で真剣な面持ちで立っていて、愛おしいとさえ思える彼の前髪や官服が潮風を孕んで綺麗に膨らんでいるのを見たら、男だとか女だとか下らない性差で悩んでいる自分が馬鹿らしく思えてきて、ああ生きててよかったって、あの時殺されていたら今頃悩む事も出来なかったんじゃないか、でもやっぱり妊娠してたらどうしようって、ぐるぐる考えながら一つ呼吸を置いた。

そんな事をしている間に、ぽろりと、何かが一粒だけ私の頬を通過していった。






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