リンネがいないと、そう報告を受けてから果たしてどれくらい経ったのだろう。
あの時焦って一人で王宮から出ていこうとした彼女を止めるのではなく、俺自身が付いていけば良かったのではないか。こめかみを押さえながら、そんな考えばかり巡らせていた。

彼女の失踪を聞いた時、直感的にああこれは一人で飛び出していったのだなと思った。それと同時に、えもいわれぬ悪寒が背筋を駆け上がったのを覚えている。

確かに我がシンドリアは平和な国だ。俺が平和を第一に考えて造り上げたのだから当たり前だ。だが、あの男はどうみても怪しかった。民を疑いたくはないが、なんというかシンドリアという国の匂いが彼からは微塵も感じられなかったのだ。だからこそリンネを引き留めたのだが…。

こんな思索が杞憂であってくれれば良い、そして彼女は無事後生だという女性の元に辿り着いていれば一番いい。しかし矢張りどうしたって、嫌な予感を拭い切れはしなかった。何人かの兵士達にリンネの捜索をさせているのもその理由からだ。自分で言うのも何だが、俺の勘は当たるのだ。特に、悪い事に関しては。

ひとつ、空気よりは明らかに重いだろう溜め息を吐く。予想通り下へ下へと落ちてゆく吐息の塊を何とはなしに見詰めていると、後方から自分の名前が耳に慣れた声音で呼ばれた。どうしたジャーファル、そう言いながら声の主を振り返ると、そいつはああ良かったここに居たのですねと安堵の息と共に小走りで近寄って来る。大方俺が勝手にリンネを探しに行ったのではないかなんて心配をしていたのだろう。


「何か分かったのか」
「残念ながら未だに、門兵が彼女を見送った事、それにバザール方面の道を行った事までしか分かっていない状態です」
「そうか」
「まったく、手間を掛けさせてくれるものですね」


辛辣な口調の割には心配という二文字をありありと顔に浮かべるジャーファルに、その通りだなという意を込めてゆっくりと頷いてみせる。

その時ふと、何故俺は彼女の為にこんなにも頭を悩ませているのかと疑問を感じた。
幾らこの国の医療を牽引している者だからといっても、リンネは出身も何も謎だらけの偶然出会った女性にすぎないのだ。俺は彼女を疑っている訳でもない、寧ろ信用はしているが、彼女が俺達との間に何らかの溝を感じているのは端から見ても明白だった。なのに、何故。

考えつつ、石造りの手すりに手をかけた。ここは二階のテラス。故に王宮の前庭や門が目の前には悠然と広がっている。その上には、以前彼女が「濃い」と言っていた空がこちらも負けず劣らず悠然と手を広げていた。

ここでは空は青もオレンジも限りなく濃くて、目薬みたいに染みますね。
そんな台詞を少しだけ寂しそうな表情で紡いでいたのは、一緒に船に乗っていた時だっただろうか。目薬とは何だか分からなかったが目の薬である事くらいは理解できた。きっと彼女の故郷にはそんな代物があったのだろう。

手すりに体重を掛けて門の辺りをぼんやり眺めていると、不意に俺の頭の中には先程の答えらしき物が浮かび上がってきた。

彼女をここまで心配してしまう理由。
それは他でもない、リンネが不安定に見えるからである。皆とはどこか違う雰囲気を纏って偶にどこか悲しそうな表情を垣間見せる彼女は、俺のような人間が手を伸ばした瞬間に消えてしまいそうな気がするのだ。まさかそんな事は有り得ないだろうが、確かに。それでも確かに、彼女の存在の危うさみたいな物はそこはかとなく感じていた。

きっと俺は、好きだとか怪しいだとかそんな感情を全て包み込んでしまいそうなくらいの不安定な何かが彼女を、いやこのシンドリアを覆っているような錯覚を抱いて気が気でないのだ。一国の主としては情けない話だが。

そのような俺の女々しくも思える思考を知ってか知らずか、ジャーファルは小さな溜め息と共に数歩だけ足を進め、そして俺と同じように手すりに重心を乗せた。コイツも今、彼女の事を案じているのだろうか、なんて分かりきった事はわざわざ口には出すまい。


「シン、聞いてもいいですか?」
「何だ」
「このまま彼女が戻って来なかったら、どうするつもりで?」
「…それは彼女が死んでいたら、という意味か?」
「違います。彼女が」


リンネが自分の意志でシンドリアを出ていったのだとしたらどうするのかと、ジャーファルは問うてきた。そうだな、どうするか。曖昧に濁してみるも、そんなのがこの口うるさい政務官に通用する訳がない事は痛いくらい分かっていた。案の定ジャーファルははぐらかすなと言いつつ、じろりと睨みを効かせてくる。リンネが本当に間者だったとしたら、なあ。


「どうもしない、だろうな」
「はあ?この国の医療の情報をあれだけ握らせておいて、何もしない気ですか?」
「何か問題が?」
「大有りです。彼女はこの国の医療進度、ひいてはどの程度の医療従事者がいるのかまで知っているのですよ?」


喚くように口にするジャーファルが言いたい事はつまり、リンネがもし他国のスパイでシンドリアの情報を流さんとしているのならその前に殺してしまうべきだと、そういう事なのだろう。それも一理ある。が、しかし俺はまず彼女はこの国を、というか俺を裏切るような事はしないと信じている。それに、そうだ。

濃い空色に向かって小さく笑みを零すと、隣の冷たく熱い部下が怪訝そうに眉をひそめたのが何となく分かった。

「例え間者でも、俺は彼女を殺したくはない」

どこまでも広がるこの世の天井と見つめ合ったまま言い切れば、横から呆れたような溜め息が飛んできた。


「シン、貴方って人は本当に…!」
「しかしお前だって同じだろう?」
「いいえ。私は貴方とは違います」
「いや、同じだよ」


心のどこかで、彼女を死なせてはいけないという可笑しな感覚を持っているはずだ。
間髪入れずにそう断言する。ジャーファルはそれに反論したそうな表情になったが、幸いそれは適わない事になった。後方から、焦ったような足音を伴った兵士がやって来たからだ。俺もジャーファルも揃って体を捻ると、彼は息を整えるのも忘れて直立不動となった。


「お伝えします!気を失った状態の白い服を着た二十前後の女性が、南東の沿岸近くの空き家に運び込まれるのを見たという情報を得ました」


十中八九、彼女だろう。
ああ、矢張り、リンネは間者ではない。と、賭けに勝ったような喜びを味わっている場合ではない。マスルールに伝えて向かわせるか、それとも俺が出向いてしまうか。ご苦労だったなと、兵士に労りの言葉を投げながらもそんな逡巡を頭に巡らせる。するとその隙を得たと言わんばかりに、私の隣にいた筈の側近は風に舞う官服に構わず既にその足を手すりに掛けていた。


「いいですか、シン。貴方はここにいてください!」

声を掛ける間も作らずに自分だけ言いたい事を声にだしたソイツは、次の瞬間には体を空中へと投げてしまう。風に靡く緑色のベールが、空の青に溶けてゆくように見えた。普段は俺に建物から飛び降りるなんてはしたないだとか何とか言っているクセに、自分は何の躊躇も恥じらいもなくやってしまうのだから呆れたものだ。

なんだ、結局お前の方が彼女を死なせたくないんじゃないか。
思わず零れた独り言は、沈んだ青に漂う運命となった。


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次話には暴力表現や流血表現、また生々しい描写が含まれます。苦手な方はご注意下さい






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