この世界へと来てしまってから、もう3か月が過ぎた。
私が心配するような、この国この世界とさよならする兆しは何もなく、ただ平穏な時だけが流れていた。毎日医務室のデスクに座って、二週間に一度か二度くらいのペースで助産をして、そして本当に時たま、シンさんの要請で医学会の代表として恐れ多くも国の進路を決めるような重要な会議に出席する。昼食時になれば中庭に赴いて惰眠を貪るマスルール君を眺めながら食欲を満たし、勤務が終わったり患者さんがいなかったりする時には勉強やヤムライハちゃんとのお茶で時間を潰す。

そんな風に、本当にびっくりするくらいに平和で穏やかな毎日が存在していた。無論時々であるが、ジャーファルさんが私の事を監視しにくる事、それに未だにマスルール君の出来事を知らない兵士やら食客やらが冷やかし目的で医務室を訪れる事が無くなった訳ではない。でも、それが日常の一部と成りつつある程に、私の危険への嗅覚というやつは鈍っていたのだ。



そよそよと吹き込む生あたたかい風を窓越しに受けながら、普段着であるグレーの麻で出来た薄手のブラウスのような衣服の上に着ている、白くてシンプルな日本の着物や浴衣に近い構造の服のズレを直す。ジャーファルさんやヤムライハちゃんと同じ柄の官服も支給されてはいたけれど、完全にこの国の人間ではないという自覚の所為で袖を通す気になれなかった。何だかこう、少しだけ、罪悪感に苛まれてしまうような気がしてならないのだ。

普段通りの和やかな昼の光を受ける医務室には私以外だれもいなかった。その代わりと言ったように、今さっき診察した、つまり容態を確認してきた記憶喪失の患者さんのメモが机の上に大人しく座っている。

医者として、いや実際は看護師だけれど兎に角、何も私は一日中ずっと医務室に張り付いている訳ではない。右足が壊死ししかけて歩けない患者さんや、今話題に上がった記憶喪失の患者さんの元には回診という形でそれぞれの部屋まで診察しに行っている。その間はここは、私の前任であったどこか杉田玄白大先生に似た雰囲気を醸し出す初老の医師が見ていてくれていた。

実際、つい先程までも彼が医務室にいてくれた。ただ老人の休息への欲という物は驚くくらいに強く、私が医務室に戻るや否や脱兎の如く場を去っていってしまうのが常だった。もしかしたら何か研究でもしているのかもしれない。そうだと願いたい。

息を吐きつつそんな事を考えてると、突然、男性の何かを喚くような声とそれを止めようとしているらしいやっぱり男性達の野太い声が四角い窓枠からするりと侵入してきた。何事かと思い窓から顔を覗かせてみる。二階に位置するこの医務室の窓からは、ヤムライハちゃんがよく試作段階の魔法を試すのに使っている前庭がよく見える。つまり不可抗力として前庭の向こうにある王宮の門なんかもそれはそれはよく見えるのだ。

声の主は、門番らしき人達を押し退け王宮に足を踏み入れようとしているらしい。門の内側、宮廷の入り口まではあと二十メートルくらいの所で、当然ながら彼の歩みを阻もうと奮闘する兵士さん達にもみくちゃにされていた。そして、埋もれていく。誰が何に、とは敢えて言わない。言わずとも分かるだろう。

この国は日本などより余程平和で純粋な国なのに、こんな殴り込み紛いの事件も起こるのか。不思議だ。どこかの国の政治家と違って、本当の意味で国民を第一に考えるシンドバッドさんが彼らから無為に何かを搾取するなんて、およそ考えも付かないのに。
そう、どこか他人事のように男性の反抗動機について考えていた。考えていたのだけれど、それは全くの勘違いであると気付いたのはその僅か三秒後だった。

妻が後生だ、医者を頼む。
私の耳は確かに、そんな言葉の羅列を全身で受け取った。兵士さんたちに大分酸素を奪われているであろうに、距離のあるここの窓枠まではっきり伝わるなんて、余程の力を込めて絞り出した声音に違いない。自分の中の血が、どくんと脈打つのを感じる。医者を必要としている人が、あそこに、二十メートルしか離れていない場所で必死に助けを請うているのだ。

そう思ったらいてもたってもいられなくなった。気付けば自分は既に、落ちるんじゃないかと危ぶむくらいに外へと身を乗り出しているではないか。全く私も積極性に溢れている、なんて考える余裕はあまり無い筈なのだけれど。
こちらへ来てからだいぶ鍛えられた肺腑に出来る限りの窒素を貯めて、それから大きく口を開けば、爽やかな青を呈している空との距離がぐんと近付いた。


「あの!どうかしましたか?」


私の思い切った声に気がついた男性方は揃ってこちらを見上げ、その中心の今無断で侵入しようとしていた男性に口角をにいと吊り上げてアンタは医者かと聞き返される。その笑みに引っ掛かるものなどは皆無だった、とは言えないけれど、それでも命の危機かもしれないという認識もあって無視する事にした。

彼が大声で私に言うには、奥さんが病気で倒れたが近くに医者がいない、らしい。近くの医者は近所の女性子供を取り上げに行っているらしく、都合が付かないと言われたそうなのだ。だから王宮の医師に助けを求めた、と。
そんな一連の話を聞いて救助しに行かないなんて選択肢が私の心に姿を見せる訳もなく、彼には窓越しから直ぐに行きますからどうか外で待っていてくださいと声を掛ける。その時の彼の笑顔が、妙に私の頭にこびり付いた。

いやいや、そんな、笑顔に不快感を感じるなんて私、おかしい。
医療従事者としてあるまじき考えを頭を振って追い払おうと試みながらも、彼の奥さんを診察するのに最低限必要な物をてきぱき揃えていく。一刻でも早く患者さんの所へ行かなくては。そんなある種の責務のような感情で機械的に動かされていた私の動きを止めたのは、駆け込むように医務室へと雪崩れ込んできた青い頭の彼だった。恐らく騒ぎを聞きつけてやってきたのだろう。

彼、シンさんは緊迫した面持ちで私の名前を呼ぶなりずかずかと此方に歩みよってくる。足の長い人種の彼が私の直ぐそばに来るのなんて、瞬きを二度するくらいしか時間を要さなかった。


「どうしました?」
「行くな、リンネ」
「え?」
「危険だから行ってはいけない。どうしてもと言うなら護衛を用意するから」


焦らず少し待っていなさい。
至って至って真面目な表情で、彼は無情にもそう告げた。空よりずっと濃くて人間味のある黒青を呆けたように見詰める。信じられなかった。だって、彼の奥さんは今にも死線を跨いでしまいそうだと言うのに、彼女はシンドリアの一員であるというのに。なのにこの王様は、私に彼女を助けるなと言うのか。


「いいか、何も俺も彼を疑ってかかりたい訳じゃない。ただ最悪の事を考えて、もし別の目的で王宮の者を誘き出そうとしているのなら…もちろん俺や武官なら別に引き止めはしないが、無力な女性となれば話は別だ」


説得するように、身振り手振りを交えて語りかけてくる彼と目を合わせる事が出来なかった。ただショックだった。それは私が無力と言われたからとか護衛を付けるからとかそういう理由ではなく、国民を助けに行くな、焦るなと言われたから。

面食らったまま動けないでいる私の視界の端で、先程距離を縮めた筈の四角い窓に切り取られた淡い青空が、ずるずると遠退いてゆく。






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