「産婦人、科…?」 「はい。というよりは、簡単なもので良いのでお産専用の分娩室だったり、妊婦さんの為の診療所を作って頂きたいんです。いや、作るべきだと思うんです」 それは私が今回の体験を経て強く望んだ事だった。そして出来れば私も、その現場で働きたい。職場を貰っている立場の私がそんな事を言う資格は無いのかもしれないけれど、でも。それに、医療分野を細分化する事は、きっとシンドリアという国にとっても良いことで、かつ必要な事だと思うのだ。 何時になく強い口調で出た私を、シンさんは拍子抜けしたような表情で見詰めていた。私自身ですらこんな風に力説するつもりはなく驚いているのだから、彼の感じた驚きというのはそれ以上に大きいに違いない。それを裏付けるかのように、シンさんは思わずと言った体で、驚いたよ、そう小さく零した。 「リンネがそんな風に熱くなるなんてなあ」 「あつい、ですよねやっぱり…」 「いや、悪い事ではないさ。寧ろ俺的には喜ばしい事だ」 この国に慣れてきた証拠だろ。 そう言ってシンさんは今日一番の微笑みを見せてくれた。ただ、私が察するに、だけれど、その笑みには恐らく私の願いというやつが危険な物ではなかった事に対しての安堵も含まれているのだろう。彼やこの国が私に良くしてくれるのは確かだけれど、矢張り私はどこか他人であるのだ。だからこうやって、何か困るようなお願いをされるのではと表情を固くさせてしまう。やだなあ。 もういっその事、正体をバラした方がスッキリするのではないか。そんな、行動に移す気はさらさらない考えを頭の中だけで反芻させながら、「そうですか、すいません」なんて当たり障りのない返答をする。その瞬間ふと、私が何時まで経っても「部外者」なのは私自身の責任も大いに有るのだと痛感した。わかっていた筈なのに都合よく忘れていた。人間というやつはなんて自己本位な造りになっているんだろう。 「で、リンネ」 俯き気味になって軽い自己嫌悪を奥歯で噛み締めたまま動きを止めていた私の頭に、女の私には到底出すことのできない低い音で紡がれた自分の名前が飛んできた。弾かれたように顔を上げれば、そこには絵画のような柔らかくも人為的な笑みを口元に携えた主と彼を誇張する為の貴金属があって。取り急ぎはいと返事をした。声が少し掠れてしまったのは、まあ仕方無いとしよう。 「出産の為の医療施設、というのは具体的にはどんな物が要るんだ?」 「え、作ってもらえるんですか?」 「勿論。こういう要望は逆に有り難いよ」 「有り難い?」 「ああ。俺やジャーファルなんかの思考じゃ、及びもつかない提案だからな」 にこやかな笑みを浮かべながら、更に私は予想以上の働きをしていると褒めてくれるシンさん。今さっきの懐疑なんて忘れて浮かれてしまう自分の単純な脳細胞を抑えるように、小さく首を横に振った。もっと頑張ります。心からの気持ちを添えて口にした言葉を、彼は悠然とした態度のままでその拳の中へと受け入れ、そのまま離さずに左胸へと持ってゆく。ああなんて凛々しいのだろう。気をつけていたのに、心酔してしまいそう、だ。 彼の底無しの魅力に呑まれそうであると危ぶんだ頃にはもう時既に遅しというやつで、誰に命令されている訳でもないのに以前ジャーファルさんがしていたようにシンさんに向かって両手を合わせて胸の位置で掲げている自分がいた。 ![]() お目当ての濃緑のベールを見付け、足を動かす速度を上げる。どうやら仕事部屋に入る所だったらしいけれど、仮にもシンさんの右腕的なポジションにある彼が私の雑な足音に気付かない筈もなく、声を掛ける前にこちらを振り返ってきた。当たり前のように正面から衝突する視線同士に少しばかりどぎまぎしたからだろうか、こんにちはの挨拶が先程と同じように掠れてしまった。 「その様子だとお産は無事済んだようですね」 「あ、はい。お陰様で何とか」 「それは良かった」 「それで、あの、本当にありがとうございました!」 これ以上吸い込まれそうになる彼のダークグレーを見詰め続ける事は自殺行為のようにも思えたのだけれど、矢張りお礼を言うのに相手の目を見ないのは失礼だという道徳的理由で視線は外さずに言い切った。今だけは自分を誉めてあげたい。すると何て事だろう、ジャーファルさんがふわりとした笑み、あの初対面の時に垣間見せたものに似た柔らかな微笑みを浮かべたではないか。 あの時以来の全面的に優しい表情に、私の心臓が小さく揺れる。一瞬、彼は私を疑っているという事を忘れてしまった程の衝撃に、思わず掠れた声さえも失ってしまった。突然固まった私を怪訝に思ったらしい、ジャーファルさんは眉根を寄せてどうかしましたかと顔を覗き込んできた。 いや、だから、あなたの所為ですよ。 とは言えず、ただ二三回大きく頭を振る。煩悩退散、そんな下世話な願いだけを脳裏に浮かべて。 「本当に、どうかしました?」 「な、何でもないんです。ただ、」 「ただ?」 「ひ、久し振りにジャーファルさんの笑ってる顔を見た気がして、少しびっくりしてしまいまして」 しどろもどろ口にした言葉に対して、ジャーファルさんは一瞬大きく目を見開いたものの、一度瞬きを終えた時にはもう普段通りの聡明な顔つきに戻っていた。 貴方は、人の表情を見分けるのが得意なんですね。そう静かな口調で言われたけれど決してそんな事はないと思う。というか他人の笑顔が本物か上辺であるかというのは誰だって何となく分かる訳で、私もそういうある種の勘のようなやつをごくごく自然に発動させていただけなのだけども。でもどうやら、彼から見ると私は人の表情の変化に敏いらしい。 「私も差し障りのない笑顔を繕っていたつもりだったのですが」 「そう、ですか」 「まあ、これでますます貴方への疑いが大きくなりましたけどね」 「え」 「はは、嘘ですよ。そんな顔しないでください」 そんな顔、とは恐らく私の鳩が豆鉄砲を食らったような表情の事だろう。珍しく何の臆面もなくクスクスと音を伴って笑うジャーファルさんを見ながら、ああこれが彼の素であるのかと何となく考えた。 きっと彼はいつも気を張っているのだろう。政務官という重役をこの若さで勤めるのに、立ち居振る舞いや言動を気にしない訳がない。この白い肌に汗を滴らせながら、私が想像も付かないような苦労だってしたに違いない。 そう思ったら、何故か衝動的にその頭を撫でたくなった。無論そんな事をしてしまった日には毒針レベルの鋭い視線を投げられるだろう事は分かっているから、行動に移しはしなかったけれど。その代わりに、これを機に産婦人科を作ってもらうという旨を伝える。ジャーファルさんもシンさん同様に、考えもつかないものだが賛成だと言って頷いてくれた。 「じゃあ貴方はそこでも勤務するのですか?」 「はい、出来れば」 「そう。じゃあ差し詰め、助産師長、と言ったところですかね」 「はい?」 何の事やらと小首を傾げると、彼はその透き通るような銀糸を揺らして私の助産師としての地位の名前だとさも当然のように口にした。私としては予想外の発言である。今でも十二分に役者不足な役職名を貰っているというのに、助産師としての地位もだなんて。焦るように首を横に振ると、今度はジャーファルさんが小首を傾げた。 「私に、いま以上の肩書きはちょっと」 「何故です?」 「何故って、それは」 「言ったでしょう、貴方にはこの国の女性の象徴になってもらうと」 「でも、私、嫌なんです」 肩書き人間になるのは、どうしても。 勿論、この王宮に仕えると決めた日にジャーファルさんに言われた言葉を忘れている訳でも、こんな事を言って彼を困らせたい訳でもない。 ただ、余りに多大なこの肩書き達に対し、どうしたって嫌悪感を拭えなかった。肩書きや役職と言った寂しく空っぽな張りぼてが、両親を思い起こさせるからかもしれない。それか若しくは、ジャーファルさんがいつも余りにも正しい答えをくれるから、無意識のうちにそれに頼ってしまったのか。まあどちらにせよ、私が弱い事には変わりない。 不甲斐ない私の正面で、すうと目を細めた政務官さまを静かに見上げる。はあ、わざとらしく吐息を吐いた彼は、細めた目をゆっくり閉じてから肩を竦めた。いま辛辣な言葉を浴びたら立ち直れないかも、だなんて自分から反抗しておいて考えていいものではないだろう。 「…貴方は、何をそんなに憎んでいるんです?」 「別に、憎んでいる訳では。」 「良いんですよ、肩書き等にいちいち振り回されなくたって」 「そうは言っても…」 「あのねえ、貴方もシンドリアに尽くしたいのならもっと意欲を持ちなさい。肩書きがなんです」 逆にそれらを振り回してやるくらいに思いなさい。そして本当に肩書きを凌駕する位の働きをしてくださいよと、ジャーファルさんは言った。 ほらやっぱり、彼は答えをくれる。何時だって、肝心な時に私が望んでいるものを易々と懐から出してしまうのだ。だから私は彼に頼りたくなってしまう。悪循環だ。そのくらい分かっているつもり、だけれど。 「期待していますよ、リンネ」 いつぞやと同じような眼差しで、そんな風に呼び捨てで名前を呼ばないで欲しかった。ミジンコ並みに弱っちい私が、またもや心臓の揺れと闘わなくてはいけなくなってしまうではないか。 |