大してない脚力をこれでもかと酷使して戻った医務室には、うずくまるようにしてお腹を抱える女性がひとり。

彼女の表情がこの上なく苦しそうだった事、それから押さえているお腹が大きかった事から産気づいている事にすぐに気付いた。大丈夫ですかと声をかけながら彼女に近付いてゆけば、薬品の匂いにほんの少し混じっている妊婦独特の匂いみたいな物がなんとなく嗅ぎ分けられた。


「あ、う、うま…れる、く」
「今、陣痛はどのくらいの間隔できてますか?」
「は、やく!生まれちゃ、うう」
「大丈夫ですから、教えて下さい」


混乱しているのか、「生まれる」以外の返答の選択肢を持てなくなってしまったらしい。けれど私の見る限りまだ表情に余裕らしき物も垣間見えるので、多分あと三十分くらいは持つだろう。

こちらに来て初めての妊婦に私の緊張が働かないのかと問われれば勿論首を振るだろうけれども、それよりも目の前の二人分の命に胸が躍っていた。すこし不謹慎な言い方かもしれないけれど、確かに私の血潮は今までにない程熱く赤く染まっている気がしたのだ。


「じゃあ一番奥のベッドに行きましょう」


本当は分娩台があればいいのだけれど、流石医療体制の整っていないシンドリアというか、まだ産婦人科としての発達は未熟らしい。今度シンさんに言って分娩台でも作ってもらおうか、そう考えながら痛い痛いと声高に叫ぶ女性の肩を支えベッドまで連れて行く。

助産師の国家資格を取るための勉強や親に隠れての実習の成果が、こんな所で試されることになろうとは。すこし感慨深く思えて、目を瞑って一度大きく深呼吸した。無論彼女は私のそんな動作にも気付く余裕なんてなかった様だったけれど。


「いいですか、ゆっくり息をして下さい。陣痛の間隔がゼロになるまでまだ余裕があると思うので、私は今のうちに用意をしますから」


ベッドの上で額に汗を浮かべて唸る彼女にきちんと伝わるようにと声を大にしてそう言ってから、はやる気持ちを抑えてゆっくりと踵を返す。カーテン代わりの大布で空間を閉じる前に、もし本当に生まれそうだと思ったら遠慮なく叫んで私を呼んで下さい、と釘を差しておいたから取り敢えず今は準備に専念すべきだろう。よし。

心中で気合いを入れてから、まず何より始めに下ろしていた髪を結い紐で高く括り上げる。

いくら猶予があると予想されるとはいえ、生命の誕生というのは矢張り神秘である。それ故本当にいつ産まれるかというのは正に神のみぞ知る、といった所であるから、今の私にはてきぱき迅速に準備をする事が是が非でも求められていた。プレッシャーが掛からない訳はないけれど、大布の奥で私より不安な思いをしている女性がいるのだと思えば兎に角やらねばという気力が湧いてくる。


手始めに医務室の棚の一角にある清潔な白い布を持てるだけ持って女性の寝ているの隣ベッドに置き、それから産湯を用意する為にこれまた戸棚の奥から現代で言うたらいのような物を引っ張り出した。

産湯の温度は確か母体の胎盤内と同じ三七度くらい。日本のようにポットも湯沸かし器もないので、その温度にする為には水を火で温めなければならない。ただここに火元になるような物はない。だから暖炉でも何でも兎に角火の気のある部屋に行かなくてはならないけれど、そうしたら彼女をひとり置いていく事になる。どうしよう。

どうしたら一番良いかと思案するものの、赤子の生命が関わることなのでそう簡単に決断できる筈もしていい筈もない。ただ、時間もない。

本当に、どうすれば。
心臓がぎゅうっと痛みを覚えたその時、医務室の入り口の前を見慣れた深い緑色が過ぎ去ったのを視界に捉えた。彼に頼もう。思うが早いか開け放しの扉から大股で廊下に出る。


「ジャーファルさん!」


早足で歩いてゆく背中に精一杯の声量で呼び掛けると、彼の長いベールと官服がふわりと揺れた。只でさえ多忙な彼に頼みごとをするのは少なからず気が引けるけれど、今はそんな事で遠慮している場合ではないだろうと自己完結をして、怪訝な表情で振り返ってきた彼と目を合わせた。


「リンネさん、どうかしました?」
「あの、実はお願いがあるんです!」
「すみません、今忙しいので後にし」
「赤ちゃんが!」
「は?」
「赤ちゃんが、生まれそうなんです。緊急なんです」


普段なら決してしないであろうが、今ばかりはジャーファルさんの言葉尻を強引に奪わせてもらい、室内で刻一刻と分娩が近付いている事を伝える。
すると彼は途端に目を丸く見開き、出産ですか、切迫感あふれる声で私をひたと見詰める。こくりと頷けば、手が足りないのですね?と全てを了解したかのような言葉とともにそのダークグレーに映る私をゆらりと揺らした。


「そうなんです。私しかいないので」
「分かりました。私は何をすれば?」
「あ、ありがとうございます!」
「いいから、早く言いなさい」
「はっはい、この桶に水を入れて…ええと、」


果たして39度くらいと言って、温度計の存在しない世界に生きる彼に伝わるのか。無理だろう。
焦りの割にはそんな冷静な判断が効いて、急ぎ頭の中で適切な言葉を模索する。その間ジャーファルさんは私の言葉を石像顔負けの直立不動でじっと待っていてくれた。何だか有り難い。


「そうだ、ひとはだ、人肌の温度にして持ってきて下さい」
「人肌、ですか」
「はい。あ、でも冷めてしまうかもしれないので心待ちあたたかめで!」


温度を聞くやいなや私の手にあった桶を奪い踵を返したジャーファルさんの背中へと付け加えた言葉達が、約二メートル程の距離をぷかぷかと浮かんで流れていった。お願いしますの意味合いを込めて一度大きくお辞儀をする。でもきっと、いや確実に彼はそれを見ていなかっただろうから、戻ってきて赤ちゃんが無事生まれたらもう一度きちんとお礼しに行こうか。

恐らく国を動かすような大事な問題も含まれるであろう自分の仕事より、ひとつの命を優先して手助けしようとしてくれる。そんな心根は優しい政務官さまに心中で手を合わせてから、本日何度目かの深呼吸をする。

分かっている。今は感謝に打ち震えるより先にやる事がある。今の私は異世界の人間でもシンドリアの医師でも看護師でもなく、助産師であるのだから。時間はない。さあ、早く分娩に必要な道具を揃えなくては。






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