今日も今日とて、空は爽やかな青色を私たちに届けてくれる。けれど実はそれは空のお陰というよりは、オゾンと上手い具合に入った光のお陰なのだ。その事実は、幼少時の私に随分と衝撃を与えた。空は無条件で青い訳ではないという、変えようのない普遍的真実。でも、否、だからこそと言うべきか、この世界では空は何の物理的なしがらみも無く青いのではと考えてしまう。

きっとこの世界の場合は、アダムとイブの代わりに空と海の青が混沌と存在していたのだろう。なんて。


「青いねぇ」


頭の上に悠然と広がる空を見て呟くと、隣の巨体からああともうんとも判別がつけられないような素っ気ない声が上がった。けれど彼は元来とても無口な性格であるので、苛立つどころか少しでも反応があった事に小さな喜びを覚える。と同時に、私はこの中庭にいても良いのだというとても有り難い許可を得た気分になった。


「マスルール君、お昼は?」
「…もう食いました」
「そう。でも、良かったらどうぞ」


飲んでいたスープのお皿を脇に置いて、草が生い茂る地面に何の違和感も抵抗感も無く寝そべるマスルール君に真っ白いパンを差し出す。

暫く無言でその小麦を練って焼いた食物を見詰めていた彼だったけれど、どんな逡巡を終えたのやら、放漫な動作で私の手からそれを受け取り、迷った割には直ぐに口の中に放り込んだ。その様子は無性にリスを思い起こさせて、何だか凄く可愛い。どうしよう飼いたくなる。まあ、こんな大きくて逞しいリスを飼うだなんて無理な事なのだけれど。


「…うまい」
「ほんと?良かった」
「リンネさんが作ったんすか」
「いやまさか。ここの料理人さん」
「……」


中庭のベンチに座りながら、侍女さんが持ってきてくれる昼食を頬張る。それが最近の私のお昼休みの過ごし方だった。

因みに侍女さんを持っているなんていう大層なお嬢様待遇を受けているのは、全てシンさんの差し金である。ただ、私には恐れ多いと言ったにも関わらず、お前はもうシンドリアの大事な一柱なんだからなんて適当な理由を掲げて侍女さんを付けた事からして、もしかしたら彼女は私の監視という役割も兼任しているのかもしれない。というのはあくまでも、シンさんも私を疑っているのであれば、という話である。


それはさて置き、私がお昼をこうやってのんびりとベンチに座って堪能する足元で、この青年はとても心地良さそうに寝ているのが常だった。聞けば何でもこの時間は毎日ここで太陽の光を浴びながら、惰眠を貪るのが日課と言うではないか。

そんな我が儘がいち兵士に許されるとも思えない上、助けてもらった時に一緒にいた女の子達が彼の名前を敬称付きで呼んでいた事から察するに、マスルール君はある程度上役であるのだろう。けれどそれにしては若いし無防備過ぎやしないか。

果たして、彼は何者なんだろう。
気にならない訳ではなかったけれど、無駄な詮索は主に政務官さま方面であらぬ誤解を招きそうなので止めておく。それに余り深く関りを持たない方が、私的にも気楽だ。いつ身に覚えのない事で糾弾されるか、それにいつ元の世界に戻れるのか全く分からない身の私が、この世界に簡単に根を下ろして良いとはどうしても思えなかった。

つまり私はまだ、あの汚くて目を伏せたくなるような世界に未練を持っているのだ。認めたくはないけれど、確実に。


「…リンネ、さん」
「さん?」
「なに考えてんすか」
「…んー、家族の事」
「…へえ」
「とても窮屈な人達だったから嫌いだったんだけど」


なんか今はもう懐かしく感じるんだ。
ぺたり、顔一面に笑顔を貼り付けながらそう言うと、マスルール君は少し苦々しく顔をしかめた。変なところで鋭い子だから、私の含みのある、というか最早含みしかない口調に違和感を感じたのだろうか。

でもあくまで推察で、本人ではないから本当のところは分からない。けれど、私が口を開こうかと逡巡したその瞬間に先を越したように出力されたマスルール君の言葉で、何となく分かった気がした。

羨ましいっす。彼は一言、そう言ったのだ。真っ赤な髪を太陽と喧嘩させながら、何処に思いを馳せているのか皆目見当のつかない瞳で。思わず今までスプーンを握っていた筈の手が、真下にある彼の頭へと伸びていった。


「マスルール君は、家族がいないの?」
「…まあ」
「…そっか」
「ファナリスなんで」


ファナリス?聞き慣れない単語に小首を傾げようかと考えたものの、怪しまれてはという思いが勝ってただ「そうなんだ」とだけ口にする。

家族がいない生活、なんて考えられなかった。少なくともその家族とやらに雁字搦めにされてきた私にとって、それは嫌でも嫌でも断ち切れない面倒な鎖であったのだ。今ではもう懐かしく思えるけれど、万一あちらに戻るような事があればまた同じ感情を抱くに違いない。

だからマスルール君がほんの少し眉尻を下げたのを見て、少しだけ返事に詰まった。多分こころの奥底で、得体の知れない罪悪感みたいな物を感じてしまったのだと思う。

小さく息を吐くと、まるで小動物かのようにその機微を感じ取ったマスルール君がゆっくりと上体を起こした。きっと、余り気を遣わないでくれと、そう意味合いを含んで違いない。何となく妙な確信を得、それならばと大きく伸びをする。

その時、丁度中庭の端に大きな柳の木がある事に気付いた。私たちの会話にじっと聞き耳を立てていた、陽光をさんさんと浴び健やかに育ったヤナギ。これはこれは良い所に。
ポロリと零れる笑みを右手に、ベンチから勢いよく立ち上がりその太い幹へと歩み寄る。色々と便利なので携帯している小刀を取り出せば準備は完了だ。


「何してんすか」
「え?樹皮をいただいてるの」
「…何故?」
「ん、秘密」


ガリガリガリ、なんて豪快な音を立てながらヤナギの分厚い樹皮を削ってゆく。これは一種の環境破壊、ひいては中庭の景観破壊に当たるのだろうか。一瞬良心の呵責を受けたけれど、このくらいなら悪ガキの悪戯の範疇だろうと勝手な自己判断をさせてもらった。

お目当ての樹皮がある程度地面に落ちてから、動かしていた手を止める。あとで調合師さんに渡してもらうかはたまたこのまま使うか…。少し考えている間にも、マスルール君は体を起こしたまま変な表情で私の方を見詰めていた。

彼にはヤナギの用途について秘密と言ったけれど、実はこの樹皮には解熱作用があるのだ。

というのもヤナギの樹皮にはサリチル酸が含まれているのである。古くから人間はこの樹皮を使っていたというし、このまま使えもする。でももし調合師や化学者、魔法使い達がサリチル酸からサリチル酸メチルやアセチルサリチル酸を作り出せる技術を持つのなら、効果面から考えてそちらに渡した方が遥かに有効だ。ただ、私の見た限り医務室にそれらは無かったから、きっとまだそこまでは化学は辿り着いていないのだろう。
だったらやっぱり、自分で持って帰ってこのまま使おうと思う。


ヤナギの樹皮を摘むように拾い上げてマスルール君の元へと戻る。心待ち拗ねた表情で構える彼はやはりどうしたって可愛いかった。無理も承知で飼いたい。思わず顔を綻ばせた、まさしくその時だったと思う。私の名前が全く知らない声音で呼ばれた。

その持ち主は王宮内に仕える男性らしく、声を上げて反応した中庭の私を見つけると物凄い勢いで迫ってきた。なにこれ、怖い。無意識にマスルール君のとなりにしゃがみ込んで大きな体に隠れるようにして身を寄せる。彼が小さくあのねぇ、と漏らすのが聞こえた。


「リンネさま!急ぎ戻って下さい」
「え、え?」
「急患です!」


急患、その単語に弾かれたように立ち上がる。マスルール君、ごめんね私いくね。そう言うや否や、私の足は自動的に医務室の方向へと全速力で動いていた。






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -