政務官という仕事は多忙だ。
ただ自分で言うのも何だが私は仕事人間であるし、シン程ではなくともこの国を大切にも思っているが故にこの忙殺されそうな日々を恨んだ事はない。

私の居場所は、国の成長や存続を分ける、重要な役目だ。だからこそ人一倍気を張らなくてはならない。そう、それこそ、偶にひどく思い詰めたような表情をする女性さえ信頼する事が出来ない程に。


ハア、と大きな息を落とす。
夜の王宮ではそれはさも当たり前のように闇へと溶けてゆき、みるみる内に見えなくなった。それを見届けてから、闇の最奥、黒に紛れひっそりと息を潜めるように存在する大きな部屋の扉を二回程ノックする。間髪入れずに中からは是を表す声が扉から浸透してきた為、呼吸を整える事も疎かにゆったりと分厚い大理石の板を押した。


「ジャーファル、こんな夜中にどうした」


中に居るのは我らが主である。どうやら彼はもう寝るつもりだったらしく、だらしなく胸元の開いた寝間着に水の滴る束ねた髪という一国の王としては放っておけない格好でまだ官服姿の私を迎え入れた。何だか無性に腹が立って、無言で彼の視線の高さに合わせて書類の束を突き出す。イライラするから判子くれ。


「うわ!いきなり目の前に出すなよ」
「明日の午前中までに必ずお願いします」
「ん?何故怒ってるんだ?」
「怒ってなどいません」


多少の苛つきを感じているだけで。
流石に声に出すのは憚られ、胸中だけでそう呟く。

無論読心術が使える訳でもないシンが私のそんな心境を察してくれるだろうとは露ほども考えていなかったのだが、何を思ったのか彼は私に近くの椅子を勧めてきた。そんな気遣いするなら、早く私を追い返して寝かせて欲しいものだが。


「結構です」
「何故だ?この国の話をしよう」
「その話は貴方が真面目に公務を果たすようになったら是非致しましょう」
「ハハ、相変わらず手厳しいな」


さも愉快そうに笑う主に対し多方面に及ぶ多少の不安を覚えなかったと言ったら嘘になるが、今日はそれより何より自室に帰って睡眠を取りたい。では失礼します、と断ってから重たい扉を今度は中から開けようと手を伸ばしたその瞬間。

思い出したかのような、私の声よりも低く安定感のあるシンの声音が宙に浮かんだ。それも、私の足を思わず止めるような単語が含まれているものが。


「そう言えばジャーファル、リンネの様子はどうだ?」


リンネ。耳がその固有名詞を受け取った瞬間、身を固くしてシンを振り返っている自分がいた。
どうやら当のシンもそれには驚いたらしく、夜空に瞬く星のような黄金の瞳が大きく見開かれる。これでは私が彼女にペースを乱されているようではないか。


「ど、どうしたジャーファル」
「いえ、…別に」
「…もしかして絆されたのか?」
「断じてそのような事はありません!」


主の突飛な質問に声を荒げて反論する。だがそれは逆効果だったらしく、シンはにやりと下世話な笑みを浮かべるとそうかそうかと勝手に何かに納得して頷いてみせてきた。

いや、だから違うのだ。まあ確かに、リンネという単語に反応したのは本当なのだが、決して彼が考えているような気持ちからではない。寧ろそう、シンに忠告しておかなくては。そんな気持ちと衝動からなのだ。

取り敢えず目の前の主の誤解を解き、何より彼女に関して注意を促す為、先程辞退した椅子に戻り腰掛ける。正面で私の言葉を待ち構えるにやけ顔を抓ってやりたくなった。


「言っておきますがシン、私は貴方とは違いますから」
「何の話だ?」
「女性関係の話ですよ。それからリンネの名に反応したのは、貴方に言っておきたい事を思い出したからですよ」


深い溜め息を断続的に零しつつそう口にすると、シンは興味を示したようにどんな事だと黄金色をキラキラと輝かせて身を乗り出してきた。この王様はどこまでも暢気である。こちとら睡眠時間を裂いて彼に注意を喚起してやろうと言うのに。

胃の中で欠伸を噛み殺せば、部屋の明かりがそれに合わせて小さく揺れる。


「…リンネにはくれぐれも気を付けて下さい」

出来るだけ大事な情報等は流さず、一定の距離は保つのです。

淡々とそう口にした。するとどうだろう、シンの表情がみるみるうちに堅くなってゆくではないか。
それは彼も私と同じ事を思っていたからなのか、それとも逆に彼女を信じ切っているからなのか。答えはどうやら後者らしい、と気付いたのは次に彼の口から飛び出た声音の節々に、私への非難が詰まっているのを感じた時だった。


「何故おまえはそんなに彼女を疑う?」


ああ、これだからシンは。
やれやれと首を振り、彼の目を真っ直ぐ見据える。オレンジの明かりが石造りの壁に不安定な様子でゆらゆらと色濃い影を作り出していた。


「他国のスパイかもしれないからです」
「スパイ?」
「ええ。この国を内から壊したくて近付いたのかも」
「けれど彼女は一度俺の誘いを断っているだろう」
「それはそうですが」
「なら、間者ではないだろう」


先程までのだらしのない顔はどこへやら、今はもう至って真面目な表情を浮かべているシン。もしかしたら身売りの事件も含めて演技だったかもしれないという可能性を指摘すると、あそこまで切迫した演技があるものかと一蹴されてしまった。

しかしそれだけで食い下がれる筈もない。気を抜けばそこで瓦解する。それが国というやつなのだ。そう分かっているからこそ、恐ろしい。


「しかしあの異質な形の鞄、それに彼女は故郷を濁しました。用心するに越したことはない筈だ」
「…それはまあ、確かにな」
「だからシン、貴方が何と言おうと私はリンネを警戒、監視しますからね」


反論したげなシンの言葉尻を奪うようにして毅然とそう告げる。
私が結構な頑固者であると知っている主は、やれやれといった様子を隠しもせずに肩を竦め首を横に振った。これは俺の負けだ、の合図だ。付き合いが長い所為か、そう早々と勝利の実感を得る。


「まあ、お前もこの国を思っての事だろうからな。良しとするさ」
「当たり前です」
「当たり前か」
「はい。…時にシン、」
「ん?」
「逆に何故、貴方はそんなにも彼女の事を信じるのですか?」


如何にも次いで、という形を取って聞いてみた。実は前々から気になっていたのだ。幾ら女性にだらしのないシンとは言え、身分の保証もなにもない女性一人を信じ切る事など殆どない。なのに何故、リンネは。彼女にそこまでの魅力があるとも思えなかった。


「…リンネと一緒に船に乗っていた時、彼女は言っていたんだ」


世界に捨てられて、気付いたら独りぼっちだった、と。シンは憂いを含んだ色合いの瞳でそう言った。その時の自嘲的で寂しそうな口調が忘れられない、とも付け加えた。

途端にリンネの、時折見せるあの遣る瀬の無さそうな表情が脳裏に浮かぶ。不覚にも、確かに、と思ってしまった。

部屋に映る自分の影が、まるでその中に彼女の欠片が入ってしまったかのように濃度を変える。それはシンの影も同じである事は言うまでもなく、何となくああ彼こそ絆されているのではないかと感じた。
ただ、今シンに同意したら何だか自分の積み上げてきた物が崩れてしまいそうに思われて。だから小さく返答する。そうですか。


彼女の儚い表情は何故かその後もずっと纏わりつき、その夜私は睡魔の代わりにそれに話し掛けられ続けていた。果たして彼女は間者なのだろうか。払えども払えども頭に巡り続ける疑問に、多少なりとも嫌気が差した。
とても闇が濃い夜の事だった。






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