勤務初日、十五時も半刻を過ぎた頃。

突然だけれど私は、今物凄く落ち込んでいた。ただそれは通常感じるようなショックではなくて、文化的かつ技術的なギャップというか、まあ所謂カルチャーショックという物だった。

私は果たして本当に必要なのだろうか、と嫌でも自問してしまうような衝撃が、この世界には平然と含まれていたのだ。これで溜め息が出ない方がおかしいだろう。


「初日から意気消沈ですか」


本日三度目になる鬱な吐息を零した丁度その時に、入り口の方から男性の落ち着いた声音が飛んできた。ハッとしてそちらを見やれば、この国の政務官さまが澄ました顔を覗かせてきているではないか。

慌てて笑顔を取り繕おうかと迷ったけれど、何だかそんな気力も行方知れずになってしまいただ小さくお疲れ様ですを口にした。すると彼は少しだけ目を細めて、貴方もね、とさほど気持ちの入っていないように聞こえる声音と共に入室してきた。大方私を監視しにでも来たのだろう。どこの世界にもワーカホリックという人種はいるのだなあと意味もなく感慨に耽った。


「仕事は順調ですか?」
「今のところ滞りはありません」
「それは良かった」
「医者の領分に手を出しているように思えて何だか気が咎めるのも確かですけどね」


溜め息混じりに口にした私とは反対に、ジャーファルさんはお前も医者みたいなモンだろう何故気にするんだ、なんて台詞が今にも血色の良い唇から飛び出してきそうな表情をしている。この国には看護師なんて職業がないから、きっと彼にとってみれば医療従事者はみんな医者なのだろう。

でも私は生憎駆け出し看護師でしかない訳で、医師のように怪我人や病人を診察したり薬を処方したりなんて正に手探り状態なのだ。実習の時に外来の担当になって医師の仕事振りという物を知ってはいるけれど、実際見るのとやるのではかなり違うもの。だから私も日々勉強しなくてはと思っている。手始めに鞄の中に運良く入れていた医学書の、お産以外のページもきちんと読もうと決めていた。

しかし、だ。今私がショックを受けているのはそんな前途多難な職業生活に対してではない。それよりもっともっと、この世界に身を置く者として重大な事だ、と思う。

私の正面で仁王立ちするジャーファルさんを鎌首をもたげて一瞥すると、何故か図ったように目が合った。ああ、また溜め息が逃げてゆく。


「ファンタジーにも程がある、よなあ」


ぼそりと呟くと、すかさずジャーファルさんが私の顔を覗き込んできた。きっと聞こえなかったに違いない。当たり前だ、ギリギリ聞こえないような音量で呟いたのだから。


「いま、何て?」
「…私、知らなかったんです」
「は?」
「魔法が存在するだなんて」


そう、魔法。私はこの二文字に言葉じゃ言い表せない位にショックを受けていた。
でもそんなのきっと誰だってそうに決まってる。だって魔法なんてそんなのは漫画や映画の中だけの物で、科学進歩の産物以外の物で火や水を自在に操れる訳はないと考えていたのに。それが当然であると思っていたのに。

なのに、ここの現実はそうではないらしい。
現に先程この部屋の窓から、水のアーチみたいな何かを創り出す、魔女の代名詞のようなトンガリ帽子を被った女の子の姿を目撃してしまったのだ。そしてそれだけでなく、その子が怪我をしていたらしい小鳥を治したところも。どんな仕組みになっているかは分からない。分からないけれど、とにかく衝撃を受けた。

益々怪しまれる事を覚悟でその旨をジャーファルさんに伝えると、彼は案の定眉根をぎゅぎゅっと寄せて「何故知らないのですか?」と問いただしてきた。日本から来たからです。なんて言える筈もなく田舎者ですからなんて急繕いをする。

けれどそんな私の受け答えには矢張り白々しい綻びが見え隠れしてしまうようで、彼の眉間のシワと呼応するかのように場の空気もどんどんと重苦しくなっていった。自分で自分の首を絞めるとは、正にこういう事なのだろう。


「貴方は本当に、何なのですか?」
「私は、何なんでしょう」
「またそうやって濁す」
「違います。本当に分からないんです」


自分という存在が何なのか。
ある日突然見知らぬ世界と受け入れ難い秩序の中に投げ出された。日本語は通じるのに何故か周りは皆外人のような容貌を持っていて、地図には日本という国の影すらなくて。不安定になるのも必定、ただ自分は見失いたくなかった。でもここに来て魔法という存在を知って、それが揺らぎ始めた。


「魔法は医療を牽引できる。なら、私みたいな只の人間の医療なんて要らないんじゃないですか?」


私がこの世界に存在する、意味。もし魔法が医療の代用をこなせるのなら、それは粉々に砕け散る事になる。この揺らぎはカルチャーショック、と言うには少し甘いかもしれない。

心臓が締め付けられるような感覚に負けないようにキツく目を瞑って俯いた。たとえジャーファルさんから早々とした戦力外通告を受けようとも、涙だけは流さないようにしようとこんな時まで下らない配慮をしたからだ。手を伸ばせば掴めそうな位置で、ジャーファルさんがついと息を吸ったのが聴覚的に感じ取れた。


「確かに、魔法は貴重です」
「……」
「でも、果たしてそれは生身の医療に適うものでしょうか?」
「え…」
「確かに魔法による治療も人から施されるのに変わりは有りません。けれど私は思うのです、」


何故だろう。どうしてこの人は私を疑っているくせに、私の根底にある「何か」を擽るような言葉ばかりを吐くのだろうか。
分からない。全く持って理解不能だったけれど、続けて放たれた彼の創り出す音節たちには、凄く感動させられてしまった。


「貴方たち医師による医療の方が、きっと治療を受ける側へ生きることへの喜びを感じさせやすい、と」


本当にそうだったら、いいなあ。
心に染み込んでくる一つ一つの音に対して、閉じていた目蓋をゆっくりと押し上げる。

だから貴方はここで「手当て」をしていれば良いのです。我々はそれ以上何も望みませんとも、彼は言った。暗い灰色の何とも綺麗な瞳で私を見下ろす彼の姿。私の独りよがりな悩みや存在意義などを遥か遠くに投げ捨てて、それでも懐疑の視線の強さだけはひたすらに一定である、彼のその姿。やだなあ、今日の夢に出てきそう。

そう思いながらも、知らぬ間に私はジャーファルさんに対してコクリと頷いて見せていた。






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