医務室に続けて私の医療取締なんちゃら長官としての説明を一通り終えたジャーファルさんは、ふうと一息置いてから言い付けられた仕事を頭の中で整理している私にニコリと微笑み掛けた。

先程の、無理矢理大見得切ってみた感の否めない台詞が少しだけ私への警戒を解いてくれたのだ。…なんて筈はなく、そのジャーファルさんの笑顔と言う口元を歪ませるだけの行為の恐ろしさったらなかった。思わず眩しい朝日の所為にして、目を細めてしまった程だ。

取り敢えず業務は明日からなので今日はもう休んでいいですよ。

私の心境を知ってか知らずか、まあ恐らく後者であるのだろうけれど、彼は私の恐怖心を煽る上辺の笑顔を貼り付けたままにそう言い放ちその後すぐに背を向けて歩いていってしまった。但し去り際に「迷子になっても捜しませんから、お気を付けて」なんて黒い台詞を残していって下さったけれど。

本当に何だか、怖い。あの人はきっとこの国の真の支配者なんだろう、とシンさんに言ったら笑われそうな事をぼんやりと考えた。

ただ、漏れ差し込む陽の光を悠々と受け止めながら廊下を歩く彼の背筋は驚く程に真っ直ぐで、周りの空気は彼に従うように凛と正されていて。その所為か怖いと思いながらも自然とその後ろ姿に見入ってしまう私も居た。


今さっきの政務官殿を真似て、ふぅ、と小さく息を吐く。
自分でも上手く整理の付かない気持ちたちと折り合いを付ける事は難しい事だろうから、ここは大人しく流れに身を任せようか。

だんだんと小さくなってゆく緑に、自分の心臓が勝手に紡いでいた言葉を静かに送り出す。負けません、たぶん。聞こえないからこそ、彼へとこの国へと、そして私のお腹の中へと弱気な宣戦布告をした。





「あー…、どうしよう」

もしかしたらジャーファルさんは予言者か何かかもしれない。というか寧ろそうであれば良いと思う。そうしたら私のダメージも幾分か和らぐ気がする。

考えた所で何の意味も持たない事を脳内でぐるぐるとループさせながら、同じく足も広い王宮をぐるぐる回るような方向に進んでゆく。

そうです、迷ったんです。
呆れたじゃ済まされないくらいに呆れているのは他でもないこの私であるが、そんな事を気にしている場合ではない。とにかく今は、どうやって私に用意された部屋に戻るかが先決だ。

刻々と空のルートを歩んでゆく太陽に照らされながら、取り敢えず取り敢えずと足を動かす。大体この王宮がこんなにも広く複雑な造りであるのが一番の原因ではないか。そんな苦し紛れの責任転嫁を頭が勝手にし始めた頃、私の両足は全く知らない場所に辿り着いていた。

中庭だった。王宮内である事は間違いないのだろうけれど、青々と息づく草木にベンチ、中央には古代ギリシャを思わせるような噴水といった何とも開放的な、ちょっとした公園のような空間に思わず動きを止めてしまう。上を向けば広々とした四角に切り取られた青空が私や脇に聳える木々を見下ろしていた。

一階の、中央だろうか。だとしたらやって来たのと反対方向に進めば、私でも覚えのある正面ロビーのような広々とした空間に着くのではないか、と漸く少しだけ顔を覗かせてくれた希望に嬉しくなる。

ただそれ以上に、こんな素敵な場所を偶然見付けられた事に無性に喜びを感じた。
何だか全く知らない土地で秘密基地を見付けたような、そんな気持ち。

折角発見出来たのだし、少し休んでいこう。
今日はもうやる事がない、という事実とも相まって、思うが早いか体は噴水の向こう側へと動き出していた。草を踏みしめる感覚が、何とも心地よい。そう思った瞬間だった。ぐ、と明らかに草ではない感触を足の裏に感じたのは。

あれ、何か踏んだな。
固いのだけれど金属ではないような感触に自然と視線は下に降りてゆく。壊れ物なんかを踏んでなければいいけれど。って、え?あれ、うそこれって。


「ひと、だ」


私が踏みつけた物は草でも壊れ物でも、増してや金属なんかではなかった。見知らぬ男性の胸板。それを何の気なしに、遠慮なく踏んでしまったのだ。何てことだろう。

慌てて足を元に戻してしゃがみ込む。その人はまるで私の体重が掛かってしまった事など気付いていないらしく、現在進行形で規則正しい寝息を立てていた。凄いというより、おかしい気がする。それを言ったらまず地面で仰向けになって寝ているのもおかしいけれども。

依然死んでいるかのように眠りこける、日本にいたら確実にヤンキー扱いされるであろう赤い髪と目尻が特徴的なその人の頬に、恐る恐る手を伸ばしてみる。裸同然、とまではいかずともかなり露出度の高い服から覗く引き締まった筋肉に、何となく見覚えがあった。

彼の頬を力は込めないように注意しながら二、三回叩いてみる。その度にぺちり、ぺちりと間抜けな音が弱々しく生まれ、直ぐに空に吸い込まれていった。


「あ、そうだ、この人…!」


私達を救出してくれた人だ。
そう私が呟いたのとちょうど時を同じくして、彼、確かマス何とかさんの目蓋がゆったりと上がった。当たり前だけれど私の視線と彼のそれとが正面衝突する。緊張して一気に顔に熱が集まった。


「すいません、起こしちゃって」
「…アンタ、誰?」
「わ、私はリンネと言います。一昨日は、助けてくれてありがとうございました」
「…助けた…」


何故私が自分を覗き込んでいるのかとか、どうして起こしたんだ何て台詞は一切無しに、彼はただ気怠げにゆっくり上体を起こした。

あの時は顔まではきちんと見えなかったから分からなかったけれど、案外若いらしい。まだ十代後半といったところか、顔立ちは何となく幼さの残るものだった。確実に私よりは年下。

陽光に照らされながらの快眠から起きたマス何とかさんは、暫くの間、穴が開くかと危惧するくらいに強く私のことを見詰めていた。
とくんと音を立てて落ちる鼓動の一つ一つを全身で感じつつ、折角なので目をじいっと合わせてみる。こんな格好いい青年と見詰め会える機会なんて、そうそうないだろうしという世俗的な感情を携えて。


「…あ、」
「え?」
「思い出した」
「え?」
「アンタ、船の奴か」
「あ、はい」


彼からの弛まぬ視線の本意は、どうやら私の事を思い出す為だったらしい。そう言えばあの時も固まって物を考えていたなあ、なんて思いつつその節は有り難うございましたと声に出す。
本当は助けてもらったその時に言いたかったのだけれど、彼は何時の間にかその場から姿を消していて叶わなかったのだ。

だから、良かった。こうして面と向かってお礼を口に出来て。

体の奥底から湧き上がる心地良く白い感情に自然と自分の口角が上がるのが分かった。そんな私を、彼は小首を傾げながらも無言で見詰め切れ長の目を開けたり閉めたり繰り返している。相当寡黙なのか。でも何だか、可愛いかもしれない。


「あの、お名前教えてもらえますか?」
「マスルール」
「マスルール、さん」
「…マスルールでいい。敬語も」
「え?」
「あんた、年上っスよね」

マスルール、マスルール、マスルール。

ルールの部分を忘れないように胸中で復唱していた私の脳みそに、彼の言葉がずばりと切り込んできた。弾かれたように顔を上げると、切り取られた青から降り注ぐ光を受け止める彼が至って真面目な顔をしている。

この人、人の事に興味がないみたいな顔をして実は結構観察しているんだ。眩しい。心なしか、眩しくなった。






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