「ジャーファルさん、おはようございます」


シンドリアという国と王であるシンドバッドさんに仕える事に決まった次の次の朝、柔らか過ぎるベッドから何とか時間通りに起き出した私は、欠伸を噛み殺しジャーファルさんの元を訪れていた。

何でも今日は医務室の説明と私のこれからの具体的な仕事を享受してくれるらしい。彼は政務官でもあるらしく多忙であろうに、私の世話までなんて本当に頭が上がらない。そしてこれは直感だけれど、きっとこの人に対しては一生頭が上がらないと思う。


「お早うございます。昨晩はよく眠れましたか?」
「いや、全然」
「まあ二日目ですからね」
「というより、実は昨日は自室に行く道が分からなくなってしまって」
「迷ったんですか?」
「…お恥ずかしい話ですが」


口ごもるようにして返答すると、ジャーファルさんはハァやフゥなんてものと違って形容し難い擬音の付いた溜め息を一つ。水を得た魚のように空気中にぷかぷかと浮き出したそれを、どう受け取るべきか迷ったものの結局は得意のぎこちない笑顔に落ち着いた。今なら苦虫を噛み潰せる事が出来る気がするような、そんな微妙な心境ではあったけれど。

迷うなら仕事に差し支えのない程度でお願いしますね。と何とも他人行儀な言葉を私に投げかけてくる事と同時進行で、朝日を反射する銀髪の政務官さまは足早に廊下を進んでいた。無論それに付いていくのは私の義務である。吹き込んでくる風が何とも心地よい快晴の朝だった。


「ここが医務室です」
「う、わ」
「何かおかしいですか?」
「いや、ただ予想以上だったので」


予想以上に、進んでいるのか遅れているのかは敢えて口にせずにただ両手で口蓋を覆う。ジャーファルさんは何か言いたげな表情を浮かべたものの言及してはこなかった。

清潔感溢れる白で統一された広々とした室内、カーテンらしき役割を果たしている大布の奧には大きな寝台が二つ、それに現代日本とさほど変わらない、如何にも無菌ですよと誇示するような鼻を突く薬品の匂い。

シンドリア王宮内の医務室とやらは、立派、それしか言いようのない空間だった。そう、私の思い描いていた古い古い医療より、大分先進的である部屋であったのだ。

暫く言葉を失いただ部屋を覗き込んでいると、突然ジャーファルさんが咳払いをした。どうやら何時まで経っても私が部屋の中に入ろうとしない事に対して痺れを切らしたらしい。彼の口からは神経毒に値する代物が出る、ということは昨日この王宮自体を案内してもらっている時に身を持って学んでいた為、それを食らう前にとそそくさ入室した。

中には意外なことに誰もおらず、部屋の広さには似合わず私たち二人だけになってしまう。これじゃあジャーファルさんの視線を独り占めではないか。勿論快くない方の意味で、だけれど。


「リンネさん、いいですか」
「はい」
「貴方にはここで主に食客や兵士等で出た怪我人の手当てや体調不良者への薬の投与をしてもらう事になります」
「はい、あ、でも薬の調剤って」
「それは別に行っている者がいるので大丈夫ですよ」


ああでも、もし貴方が知っているような新しい調合があるのなら是非お願いします。
急ぎ付け足された言葉にイヤイヤと首を振って返事をする。調剤なんて薬剤師の領域であって、看護師の私が容易に手を出せる筈がない。殊更自分の手で作り出せるなんて、ある筈がない、いやあっていい筈がないのだ。

ただ、そんな私の実情などジャーファルさんが知っている訳もなく、私の余りに必死な否定振りを逆に怪しいと感じたのかは何だかは分からないけれど、兎に角彼は怪訝な目つきで私をじとりと見詰めてきた。後ろめたい心がほんの少しあるだけに恐ろしいったらない。


「リンネさん…本当はこの国にない薬を知っているのでは?」
「そ、そんな事ありません」
「本当ですか?」
「は、い」
「…いまいち信用なりませんね」
「そんな」
「なんせ貴方の故郷は、謎に包まれた場所ですから、ね?」


ひっ、図らずもそんな焦り丸出しの声が出た。
それは言うまでもなく、口元だけで笑みを作るジャーファルさんの遠回しなお前はどこかのスパイじゃないのか発言に拠るところが大きい。

私はそう、ジャーファルさんに疑いの目を向けられているのだ。
多分その懐疑の発端は一昨日、この世界には幾分か不釣り合いなボストンバッグについての質問をシンさんから受けた事であったのだと思う。

今更後悔しても遅いけれど、あの時の私の対応は決して人を騙せる事の出来るようなモノでは無かった。慌ててしまったのだ。それまでバッグについては何も触れて来なかったシンさんが、唐突にそれは面白い形をしているが故郷のモノなのか、そして私の故郷はどこであるのかと矢継ぎ早に聞いてきたから。

日本と答えても船長さんの時のようにそんな場所はないと眉を顰められるだろうし、かと言ってこの国の地名なんて殆ど知らない。これで焦らない人間がいるというなら是非今からでも教えてもらいたい。

そして悪いことに私は土壇場に弱い人種らしく、上手く言葉を濁しきれなかった訳だ。「あー、ええと、遠い遠い、東の島国です」そんな精神分析学者でなくとも分かるくらいに動揺を滲ませた喋り方をしてしまった二日前の私。我ながら馬鹿にも程がある。

それでもシンさんは私を信用するよなんてまるで御仏みたいな事を言ってくれたのだけれど、流石政務官と言うべきか、ジャーファルさんはそうはいかなかった。彼は当たり前といった顔をしてバッグの中身や私の出身国名の詳細を求めてきたのだ。

確かにきっと私が彼の立場でも、怪しい形の鞄を持ち可笑しな医療知識を携えた女性は警戒したに違いない。だから文句は言えない、というか言わなかったけれど、けれどやっぱり質問攻めにはほとほと困り果てた。上手くいなする事が出来ればいいのだろうけれどそれが叶う状態でも器量でもなく、ただ曖昧な笑顔で濁した言葉を返す事くらいしか為す術が無かったからだ。

まあ兎に角、そんなこんなで、確実に疑われたなあと渋い顔をせざるを得なかったのが一昨日のこと、そして今遂にそれを痛感するに至ったのだ。


ジャーファルさんが容赦なく刺してくる、注射針の何倍も先の尖った視線に何だか早くも心が折れそうだった。どうしたら誤解が解けるものか。瞳の奥でチラつく彼の美しい銀色の髪を感じ取りながらも、小さく拳を握りしめる。


「ジャーファルさん」
「はい、何です?」
「私、怪しい人物じゃありません」


だから信じて下さいとまでは、流石に厚かまし過ぎて口に出すことが出来なかった。

ただ一番大事な部分、つまり私は敵でないという所だけはどうしても知っておいて欲しかった。例え今すぐに信じてもらえずとも、いつかは信じてもらえると、そう自分で信じたかったからかもしれない。


「私は、シンドリアに尽くします」
「…嘘でないという証拠は?」
「証拠はないです」
「ではやはり私は貴方を警戒する義務があります」
「それは承知しています。ただ、」
「ただ?」
「女に二言は有りません」


だから、そう。私には退路なんて存在してくれはしないのだ。






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