もう殆ど夕陽が水平線に飲み込まれてしまった、そんな頃。
目を見開いても足りないくらい立派なお屋敷、つまりは王宮の前で大きく深呼吸した。肩に掛けたボストンバックがこちらに来てしまったあの日のように揺れ、その度に固い地面にゆらゆら影を映し出す。


「さて、ここが今日から君の住まいだ」


悠然とした態度で私の行く手に回り込んできたシンさんが、手を大きく広げてそう口にした。まるでこの王宮を丸ごとくれると言うような口振りに、少なからず緊張していた体から自然と力が抜けてゆくのが分かった。ほんとうにこの人は、人間の扱いに長けている。


「宜しく頼むよ、医務長」
「私は医師じゃなくて看護師です」
「でも医学には変わりないだろう?」
「まあ、それはそうですが」
「じゃあ問題はないさ」


君にこの国の医療の一切を任せたい。
シンさん達に窮地を救われ、私もその恩に報いる事を決めた直後にそう言われてからここまで来るまでの間、何回も医師と看護師の違いを説明した。

にも関わらず、シンさんは私をこの国の医術のトップとなる事を強く望んでいるらしかった。
なんせ看護師は医師のサポート役なのだと眉尻を下げて言う度に、それでも君にお願いしたいと食い下がられてしまうのだ。これ以上張り合っても勝ち目はないというのは、どこからどう見ても明らかだった。
でも、どうにも腑に落ちない。


「この国は、そんなに医療が発達していないんですか?」


どこぞの馬の骨とも知らぬ私を大事な役職に据えたいと思う程、この国が医療に弱いとは到底思えなかった。あんな危険な生物が出る海に面した国だ、水難も含めて怪我だってきっと多いだろうに。

小首を傾げてシンさんを見やると、彼は少しだけ苦い表情を作る。すると助け舟を出すかのように、私とシンさんの間にするり、と黒緑のベールの壁が割って入ってきた。


「ジャーファルさん?」
「シン、説明しても構いませんか?」
「ああ」
「では、リンネさん」
「はい」


ジャーファルさんの瞳が、真っ直ぐに私の光彩を射抜く。息を飲むくらい正直で決意に満ち満ちた銀色に、少し胸が痛くなった。それは多分、彼も内心で胸を痛ませているからなのかもしれない。確信はないけれど、直感的に。


「我が国の医療が遅れている訳ではありません。ただ、シンドリアにはきちんとした医療体制が無いのです。兵士等は王宮の医務室、民は街に点在する診療所を利用していますが、それら全てを統括、または認証する機関という物がありません。その所為で最近は密入国者が勝手に診療所を開き、民の蓄えを搾取するという悪しき事例も上がってきているのです。元々我々は近いうちに医療機関を統括できる制度と、その象徴となる医療設備を作る予定でした。そこにタイミング良く、貴方のように医学に通ずる人間、しかも女性が来たのです」


早口でまくし立てたジャーファルさんは、私の顔を覗き込むようにして理解できたかと問うてきた。マシンガントーク健在ですね、とは言えずにゆっくりと頷き肯定の意を示す。

つまり、医術云々よりも象徴的な女性の先駆者としての度量を求められているのか。

国を運営するというのも大変だなあと慮ると同時に何だか少し寂しく感じた。なあんだ、私はお飾りみたいなものか、と。何とも自分勝手な気持ちだとは自覚しているつもりなのに、靄がかかった胸の中から消えてくれない。気持ち悪い。ジャーファルさんもシンさんも直視する事が出来ない。


「やってくれるか、リンネ」
「…はい。」
「じゃあ何故俯いているんだ?」
「…私、本当に必要ですか?」


何時の間にかジャーファルさんの隣まで歩み寄ってきていたシンさんを縋るように見上げた私を、果たして彼はどんな風に思ったのだろうか。今までと打って変わって急に弱腰になって気持ち悪いなんて、言われなくとも分かっている。でもこれが、この弱くて脆い紐みたいなものが私の本体なのだ。

何だか涙が出そうだった。シンさんとジャーファルさんが、右と左、それぞれの肩を同時に叩いてくれるまでは。


「何も、リンネの医療知識を期待していない訳ではないんだよ」
「ええ。少なくとも飾りではありませんから、女性と言えどカツカツ働いて頂きます。王宮の医務室に限らず、この国全土で」
「オイそれは少し酷だろう」
「なに言ってるんですシン、貴重な人材ですよ?」


どうやら私の気持ちなんてお見通しだったらしく、二人は口裏を合わせているのかと疑いたくなる程息を揃えて私に、仕事はキチンとしてもらうと至って生真面目な視線を投げかけてくれた。出掛けていた涙がすうと消えると同時に、胸があつくて痛くなる。


「…ごめんなさい。私が馬鹿でした」


暖かい人たちだ。なんでこんなに暖かいんだろうって不思議に思うくらいに優しい。
無機質で他人に頓着しない現代日本人のわたしにとって、彼等は火傷じゃ済まなそうなくらいに熱く赤く見えた。そんな人達が作る国に必要とされているなんて、私は実はとても幸運なのではないか。不意にそう思った。

それと共に何故か船長さんの顔が頭に浮かぶ。
悪いひと、だったみたいだけれど彼もまた私の記憶の中ではいい人でしかなかった。異様なカッコをして惑う赤の他人の私に手を伸ばして、何週間も匿ってくれたのだから。例えそれが最終的にはお金を得る為であったとしても、やっぱり船長さんの応急処置をした後に彼から言われた御礼の言葉は何時までだって私の心臓の中核に突き刺さったままになるだろう。

だから、平気だ。あんまり深く考えずに飛び込んでも、怪しまれてもやっていける。正体だって上手くやればバレない筈なのだ。
自分の中で一段落付けられればそこからは何だかスッキリしてしまって、無意識的に私は大きく息を吸っていた。大丈夫、大丈夫。


「シンさん達への恩に、出来るだけ報いるよう頑張ります」
「ああ、期待しているよ」


シンさんの笑顔が赤と紺の境の色をした空に吸い込まれていくのを見届けたその瞬間、私の就職先がシンドリアという優しくてしょっぱい国に決定したのだった。






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