「という訳で、あと2か月頑張る事になったんですよ…」 溜め息混じりに先日のボスさんとの会話をかいつまんで話す。 するとテーブルを挟んだ正面で優雅にティーカップを傾けるルッス姐さんは、同情するかのように小さく息を吐いた。 ついでに補足しておくと、彼女の小指はブレることなくぴんと天井を向いている。最早芸術的にさえ思える。 「ユアちゃんも大変ねえ…」 「早く記憶を戻しちゃいたいです」 というより戻さなくちゃ今度こそボスさんに殺されてしまいますよね。 続けてそう言うと、ルッス姐さんはクスリと大人の笑みを零してから小さく首を振った。 その動作がとても洗練されていて、まるで由緒ある家柄の御息女みたいだなんて思ってしまった私は可笑しいのだろうか。 「心配しなくてもそれはないわよん」 「え?」 「ボスはああ見えてそう簡単に殺したりしないわぁ、特にユアちゃんみたいに才能のある子はね」 「そうだと良いなあと思います」 「まあ記憶探しなんていっそ忘れて、新しくやり直すのも一つの手じゃないかしら」 かちゃり、カップをソーサーへと置く音が、私とルッス姐さんだけの空間にやけに小気味よく響いた。 初めて言われた、記憶を取り戻さなくてもいいではないかという意見に少なからず動揺してしまう。 するとそんな私を見透かしたかのように、ルッス姐さんは「まぁアナタの気持ち次第ね」とまるで私をあやすみたいに穏やかな口調で言った。きっとその時の彼女は、サングラスの下で優しげな目をしていたに違いない。 ルッス姐さんは心根が本当に優しい人なんだ。私もそういう点を見習わなくちゃ。 そう思ったら心臓が少し暖かくなった。 でもそれを顔に出すのは気恥ずかしい的な意味で憚られるので、上等すぎるカップになみなみ注がれた紅茶を啜ってみるという行為に落ち着く。うわ渋い。砂糖入れるべきだった。 「それでもユアちゃんはやっぱり記憶を取り戻したい?」 「…はい、だって私の記憶ですし」 「ふふ、スクアーロも大変ねぇ」 「へ、何でスクアーロが?」 「あの子はユアちゃんに思い出して欲しくないのよ」 口角を柔らかく曲げて放たれたルッス姐さんの言葉が、何とはなしに私の内蔵に刺さった。 それと同時に私の脳内をジャックしたのはボスさんに言われた言葉。 お前はスクアーロと関わらない方がいいという、よく分からない助言…というよりは命令に近いものだった。 ルッス姐さんなら何か分かるかもしれない。 ボスの言わんとしている事を、スクアーロの本当の気持ちを、私の知りたい全ての答えを。 そんな期待を一瞬の内に膨らませた私は、だいぶ温くなった紅茶に角砂糖を二つ程落としながら少し話題は変わりますけど、と断りを入れた。 刹那的にルッス姐さんの表情が歪んだのは、気の所為だと思う事にしよう。 「スクアーロと私って昔何かあったんですか?」 「あらなんで?」 「ボスさんが言ったんです」 間髪入れずに昨日ボスさんに言われた事をそっくりそのままルッス姐さんに伝える。 私はただ知りたかった。 私の記憶に関する事ならば、何でも。 そしてまた知る権利も、義務もあると思っていた。 だって私の事なんだもの。私が知らないで周りだけ知っているなんて、第四の窓以外いらないと思うんだ。でも、でも。 ルッス姐さんはそうは思っていない様だった。 何故って、彼女はあからさまに一度溜め息を吐いてから、まるで残虐な殺人犯を裁く心優しい裁判官みたいな口調で私に言ったのだから。 ユアちゃんが知る事じゃないわね、と。 その返答は彼女を頼り切っていた私にとっては余りにも残酷なものに思えてならず、私の中の時の流れだけが三秒間止まっている間に喉がカラカラに乾いていった。 何故ですかと問う前に紅茶を口に含んでパサついた口内を潤さんとする。 さっき角砂糖を二つも入れたのに、不思議とちっとも甘くなかった。寧ろより渋みが増している気がして思わず顔をしかめてしまう。 どうやら紅茶というのは心持ちによって渋さが変わるらしい。 「…どうして、ですか?」 「別にイジワルじゃないのよ?」 「はあ…」 「ただワタシはユアちゃんに縛られて欲しくないのん」 「縛られる…、」 「確かにスクアーロとユアちゃんは過去に色々あったけれど、そんなのに引っ張られて恋も満足に出来ないのなんて駄目よ」 ルッス姐さんの口調は今までにない程力が籠もっていて、私には反論なんて二文字、脳裏を掠めもしなかった。そんな、そんな諭されるように言われたら誰だってそうだと思う。 分かった事は一つだけ。 ルッス姐さんは私とスクアーロに過去何があったのかを確かに知っているという事。 なに? 色々あったって…いろいろって何だろう。 分からない。何もかも分からない、私は知る事は出来ない。 例え知る権利があったとしても、義務があったとしても、知る術が無ければ意味はない。 「そんな顔しないでユアちゃん」 「…スクアーロを好きになんて」 「なる筈はないとは言い切れないんじゃないかしら?」 「…でも、」 口を小さく窄めて、おまけに肩も竦めて言うと、ルッス姐さんは何故か私を慈しむような目で見た。 その視線は暖かいようでいてどこか寂しくて、なんとも形容し難い色をしていて。 言わずもがな私は、過去私は彼女をどんな気持ちにさせるような事をしたのだろうという気持ちにさせられてしまう。 私に記憶があったなら。 何百回と過ぎった思いが何時までも消えないのが辛くて痛かった。 そんな私を見据えるようにしながら優雅にティーカップを傾けるルッス姐さん。 不意に彼女は小さく笑み、まるで私とスクアーロをくっつけたいかの様に唇を歪める。 「スクだって色男よ?」 「…そうかもしれませんが、」 「スクは嫌いかしら?」 「嫌いでは、ないですが…」 「そうねえ……、あら?」 小さく溜め息を吐いたと思えば直後に口をOの字に開けたルッス姐さんに、私からは自然に「え?」なんていう間抜けな疑問の声が飛び出していった。 けれどその疑問は直ぐに解けた。 それはごくごく単純なもの、後ろから今の話の当事者であるスクアーロの独特の低音が響いてきたからだ。 「ゔお゙、ユアにルッスかぁ」 ツカツカとブーツの踵が織り成す音をリズミカルに響かせつつ、あろう事かこちらに近付いてくる人間は間違う筈がない、明らかにスクアーロだ。 なんてタイミングが悪い。 もしかして彼は空気を読むことが出来ないのだろうか。 「読めないなら吸わないでよ…」 「はぁ?何言ってやがんだ?」 「別に。スクアーロは何故ここに?」 「んだぁ、ヤケに冷てぇな」 「そんな事ないよ」 ねえルッス姐さん? とルッス姐さんに助け舟を求めて彼女の方を向いた。 …のだけれど、ルッス姐さんの姿はもうどこにもなく、目の前にあったのは飲みかけの紅茶と空席だけ。 やられた。つまりルッス姐さんは逃げたという訳か。 きっと優しい姐さんの事だ、私にスクアーロとの会話を作ってくれようとしたのだろう。 でも私はそんな彼女を、少しだけ浅はかで恨めしいと思った。 なんと言っても私はボスさんに忠告を為された直後で、まだ動揺だってしているしほとぼりも冷めていない。それなのに二人きりで会話なんて…。 無理、絶対無理だ。 ただ、スクアーロの方はそんな私の気持ちなんてつゆ知らずと言った風に、まるで当然であるかのようにルッス姐さんの座っていた席に腰を下ろしてきた。 私の口から思わず小さな悲鳴が出てしまったのも仕方が無いだろう。 「なんだお前、どうしたぁ?」 無論そんな私に対してスクアーロはさも不思議そうに額にシワを寄せる訳で、数秒の間が恐ろしくなるくらいにノロノロと私達の間を流れる。 そのまま何も言えずただ押し黙った私に、どうやらスクアーロの方は痺れを切らしたらしい。 彼らしい大音量の溜め息が私の鼓膜を震わせた。 「何かあったのか」 「…何もないですって」 「じゃあツンケンすんなぁ」 「なんで」 「調子狂うだろぉ」 「私が冷たいからって…」 なんでスクアーロの調子が狂うの? 敢えて表情に色を付けずにそう尋ねると、スクアーロが小さくたじろいだのが僅かだけれど見て取れた。 私としては何とも言い難い気分だ。 だって私自身はスクアーロが何故そんな顔をするのか分からないのだから。 取り敢えず手の中に収まるティーカップの中の茶色い液体を一気に流し込んでから、目の前にいる銀髪の男の顔色をちらりと窺い見る。 また、沈黙。 今日は会話のキャッチボールが上手くいかない日なのかもしれない。 「別に、お前が俺にどんな感情を抱こうが構わねぇ」 「……」 「だが、これだけは言っておく」 「はい」 「お前がどうであれ、俺の昔からの同僚である事に変わりはねぇ」 断言したスクアーロの瞳はやっぱり、髪同様に鈍い銀色で。 見ているだけで吐き気が催されるのに、見詰めずにはいられない自分がいた。 なんで? 前はお前と俺は他人だと言ったじゃない。お前がどうなろうと関係ないとのたまったじゃない。 心はそう叫んでいるのに、声には出せない。可笑しい、辛い。 ただ私はその瞬間に、スクアーロの言葉に少しだけ、本当に少しだけ、心臓を擽られてしまった気がしてならなかった。 11:濁ったティーカップを (20120206) |