いつもと違って目覚めが悪い。

それ故寝間着から制服へと着替えるのも、のろのろとまるで飼って五年目になるリクガメのように怠慢な手付きで考え事をしながらだった。


よく、幸せな時は時間が早く過ぎるとか、嫌な時間はのろのろ過ぎていくとか言うけれど、私はそれだけではないと思う。
だって私のこの1か月は、決して楽しい事ばかりでも幸せな事ばかりでもなかったもの。

それでも私を取り巻く時間は、あっという間に過ぎていった。
気付けばもう、ボスさんに言い付けられていた期限の期日となっていて。

その所為で私は今、とても緊張している。理由はただ単に生命の危機を感じているからだ。
何しろ私は結局ボスの命令のように記憶を取り戻す事は叶わず、その上未だに暗殺という任務を幹部らしく粉す事が出来ずにいるのだから。

このまま呼ばれるがままにボスの執務室へと足を運んで、何を言われるか分かったものじゃないし分かりたくもない。でもボスに呼び出されているのに応じない訳にはいかない。

つまり私はもう死ぬかもしれないと言うこと。
考えたくはないけど、まあ半殺しくらいは覚悟しなくてはと思っている。



丸々十五分をかけてようやく着替えを終えてから、ちらりと視界の端で時計の針の位置を確認してから一度大きく伸びをしてみた。
幸いボスに呼び出されている時間まであと二十分くらい余裕がある。

あーあ、二十分で記憶を取り戻せる方法とかが転がってればいいのに現代医療もやっぱり駄目だなあ。


今日という期日を迎えるまでに何人かの医者にも診てもらったけれど、どの人にも今現在の医療技術では完璧に記憶を取り戻す術は解明されていないと言われた。
何が医療技術の進歩だ、と叫びたい気分になった事は勿論、その医者達の私を…というか暗殺者を見る目に苛ついて余計ささくれ立った気持ちになったのはまだ記憶に新しい。

まあ確かに人に誇れる職業ではないけれど、それでも私達は私達なりの信念があるのだ。

なんてヴァリアー寄りな考えを何の抵抗もなく抱いてしまう辺り、私も相当この部隊に染まってしまったのだろう。
別に残念だとは思わないけれど、なんだか少し自分が奇妙だった。


取り敢えずちゃちゃっと朝ご飯を食べて、その足でボスの部屋に向かうか。

そう考えた私は、お気に入りのシュシュを乱雑に引っ付かんでから、もう大分慣れた手付きで自室のドアを締めた。






*


「記憶は戻ったか」
「いいえ、すみません」
「…チッ、任務の方はどうだ」
「そ、それもまだ完全に慣れてはいないです…」



しおらしく肩を窄めてそう言った私に、本日二度目の鋭い舌打ちが浴びせられた。分かってはいたけど痛いというか…辛い。

けれど何度もシュミレーションしたような罵声が降ってくる訳ではなく、ただ突き刺さるような視線をぶつけられるだけで少し拍子抜けしたのも確かだった。

もしかしたらザンザスさんも私が1か月そこらで記憶を取り戻す事が出来るなんいうのは妄言となるのを予測していたのかもしれない。というかそうとしか考えられない。

兎に角バイオレンスな感じにならなくて良かった。


そう少し安心の色を織り交ぜた吐息を静かに吐いたのも束の間、私の右頬を凄い速度で何か物体が掠めていったのが分かった。頬を風が切っていくような感覚で分かった。

そして私が小さな悲鳴を上げたのと、私の真後ろの壁に掛かっていた黒を基調として描かれた、趣味の悪い絵画にその物体がぶつかり派手な音を立てて割れたのと。それは見事なまでに同時だった。

パリーンなんて高い音がした事、そして何よりボスの手に収まっていた筈のウイスキーのグラスが無くなっている事からして、十中八九投げ付けられたのはその分厚くて透明なグラスであろう。
少しでも逸れていたら頬骨が危なかった。すごく怖い。

無意識的に震える足を何とか制して、床にへたり込みたくなる衝動を抑える。

そんな私をボスは、せせら笑うように目を細めて見ていた。勿論その玉座の如き椅子に脚を組んで深く腰掛けたまま、だ。



「ボ、ボス…いやザンザスさん…」
「どっちかに統一しやがれ」
「え?あ、あ…ボスさん」



焦りに任せ口走った返答に、ボスさんは何時もスクアーロに言うみたいな口調で「チッ、カスが」と口角を鋭く歪ませた。
こちとら恐怖で足は竦むし声は上手く出力出来ないしで大変なのに、そんな風にあしらわれると余計慌ててしまう。

恐らくボスさんは極度の鬼畜なんだろう。
無論そんな推測、口に出しては言えないけれど。



「何で投げたんですか…?」
「お前がカスだからだ」
「す、すみません…」
「いいか、ユア」
「はい」



ボスさんが真っ直ぐ私を見据えてくる為、その少しでも気を抜けば捕らわれてしまいそうな赤と正面切って対峙する事になってしまった。

目を逸らしたい、今すぐ全力で逸らしたい。けれど逸らしたらまた何か飛んでくるかもしれない。
例えばそう、脇に置いてある分厚い革表紙の本とか。

想像しただけでぶるりと悪寒が走ったので、到底目を逸らすだなんて失礼な行為に走る事は無理だった。

彼の酷薄な笑みが体中に突き刺さる。
その状態を暫く耐え忍んでいると、ボスさんは溢れんばかりの色気を添えた視線で私にこっちに寄って来いと命令をしてきた。
従わないという選択肢は与えられていない私は、素直に、但し恐る恐る二歩だけ前進して動きを止める。



「お前にあと二か月やる」
「…え?」
「但しそれ以上は許さねえ」
「じゃあ二か月で記憶が戻らなかったら…、」
「分かってんだろ、」


お前をかっ消す。
無情にも放たれたボスさんの言葉が、私の皮膚の表面を滑るように回っていった。

…あ、あと二か月って、そんなの不可能に決まってる。

猶予を与えてはくれたものの、私に対して存外酷な物である為手放しでは喜べず、寧ろそんなのは無理だという思いがあくせくと脳内を駆け巡る。

けれどそんな私の気持ちを鋭くも感じ取ったらしいボスさんが、文句があるのかとでも言いたげな棘々しい視線をモロに当てて来るのでもう何も言えなくなってしまった。


あと二か月。
これをチャンスと取るべきか、ピンチと取るべきか。

今日はこってりと搾り上げられる事を覚悟で行ったのだから、チャンスと言えばチャンスだ。
でも二か月は流石に短い、思い出せる確証も無いし、ピンチでもある。

…こうなれば仕方無い、取り敢えず出来る事から始めよう。



「あともう一つ言っておく」
「…はい?」

「カス鮫とはあまり関わるな」
「…は?」
「後悔すんのはお前自身だ」



どういう事だろう。
全く意味が分からない。

スクアーロが、何?
疑念に包まれた私の口からは自然とどうしてなのか理由を尋ねる言葉が飛び出していった。

当たり前だろう、なんせボスさんは私の面倒をスクアーロに見せる事にした張本人な訳で、彼が私とスクアーロとの接点を増やしたようなものなのだから。

それがどう転べば関わるなという言葉に変わるのか。
矮小な脳みそしか持たない私には皆目見当が付かなかった。

ただボスさんはそんな私の疑問を一蹴するかのように、一度ハッと鼻で笑い私を再び眼光を光らせ捉えた。一瞬にして場の空気が、私の神経が、今まで以上に張り詰める。



「お前はこのままいけばカス鮫に惚れんだろ」
「…私がスクアーロを?そんなの有り得ません」
「黙って聞きやがれドカス」
「……っ、」



ボスさんの何時になく鋭い口調に口を噤まずにはいられなかった。
でも心の内の動揺は計り知れない程で、自分の思いを整理する暇もなく、ただボスさんから告げられるであろう次の言葉を全く事しか出来なくなってしまう。

嘘だ。私がスクアーロに惚れるなんて断言できる筈がない。
ないのに、何故ボスはこんなにも自信を持て余すような態度で言うのだろう。分からない。



「もう一度だけ言ってやる」
「……」
「もしカス鮫に惚れてから記憶を思いだしてみやがれ、一番苦しむのはお前だからな」


それが嫌なら大人しく忠告を聞け。

乱暴な喋り方の割には重苦しい意味を込めたようなボスさんの言葉は、私の中で感情を淘汰する為の物になっていく。

ただ左心室辺りにしぶとく残るのは、漠然とした虚無感とスクアーロの後ろ姿。


何故だか分からないけれど、私の後ろでスクアーロの髪さながらにキラキラと侘びしく輝くガラスの破片と同じような、底知れぬ空虚な感情が私の中で渦巻いていた。




10:タイムリミテーション



(20120201)


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