何もかもが無味だった。ご飯もおいしくない、本も面白くない、スポーツは疲れるだけ、夜は寒気がして眠れない、人の声は煩いだけ。
いや、何もかもが、無味になったのだ、あの日から。

薄暗い部屋で瞼を上げる。腫れぼったくて重い感じが自分でもわかって、今確実に一重でとても不細工になっていると確信した。けど、そんなのどうでもいい。もう私の顔を見て可愛いと笑ってくれる彼はいないのだ。寝起きの私の髪を撫でて、猫っ毛だと言って額にキスをしてくれる人はいないのだ。

時計をちらりと見やれば午前5時だった。どうやら今日も深くは眠れなかったようだ。30分くらいか、とぼやけた脳で考えながら改めて布団に包まる。彼のいなくなった日から、まともに眠れた事なんて一度もない。死んでしまいたい、常にそう考えていた。

「…ロシナンテ」

誰も居るはずのない部屋の真ん中で、彼の名前をポロリと落としてみる。もしかしたら彼は生きていて、今もこの部屋のどこか、そう例えばクローゼットの中に隠れていて、ナギナギの実の能力を使って音を立てないようにしているのかも。妄想、空想と言われるのは百も承知だけれど、そんな希望を込めて彼の名前を呼んだ。もちろん、返事なんて来なかった。

なんでなの、なんで神様はこんなに酷いことが出来るのだろう。耳鳴りがする。頭がいたい。彼の洋服にあしらわれたハートマークが、私の記憶の中でどんどん遠くなっていく感覚だ。嫌だ、嫌なのに、止められない。涙と一緒だと思った。

彼の死を知ったあとの私の様子を見たセンゴクさんは、「強く生きろ」と言った。可哀想だが、とも言った、気がする。よく覚えていない。私はとにかく、彼の死後も気丈に振る舞って普段通りに仕事をするセンゴクさんには血も涙もないのだと本気で思った。だって、あの優しくてドジで笑顔の可愛いロシナンテが死んでしまったのに、本当に血の通った人間だとしたら耐えられる筈がない。私みたいに、壊れるはずじゃ、ないの。

冷たくなった枕が頬に当たって初めて、涙が流れていた事に気がつく。最近はいつもこうだ。私に情緒なんてない。もう私は人として終わってしまったのだ。

急激に、死にたいと思った。死んだらロシナンテと同じところにいけるかな。私ももう一度笑えるかな。貴方のあったかい笑顔に、応えられるのかな。

一度ごくりと生唾を飲み込んで、側にあったガウンを羽織る。生前彼と撮ったツーショット写真を手に取ってパジャマのポケットに突っ込んだ。行こう。特に行くあてもないのに、強くそう思って寝室を出て、家のドアを開ける。さすが早朝、まだ寒い。肌を刺すような冷気に目を細めながら、施錠もせずに歩き出した。



どこに行こう、というのは全く考えていなかったけれど、足は勝手に海岸へと向かっていく。10分もしないうちに、目的地へと着いた。躊躇なくスニーカーのまま浜辺へ踏み込む。眼前に広がる暗い海が、がっぽりと口を開けている。寄せて返すを繰り返している黒い波は、私を待っているみたいだった。

ああ、ここで私も死ぬんだな。ロシナンテ、ばかな貴方の後を追って。
まるで当たり前のように、そんな決心が頭蓋に響いた時だった。ザッザッと、砂浜をかける足音が聞こえてきた。その音に嗚咽も混じっているような気がして、ふとその音の方向へ顔を向ける。薄暗い青紫の世界の中で、その人物はこちらにどんどん向かってきた。目が慣れてきたのもあって、その姿をはっきり見られるようになるまでそう時間はかからなかった。

子供だ。第一印象は、それだった。男の子が、嗚咽しながら走ってきていた。コラさん、コラさんと、誰かの名前だろうか、何度も口に出しながら、わき目も振らずに走ってくる。遠くから走ってきたんだろうか、男の子の靴はすごく汚れていて、胸郭はぜーはーと凄い勢いで運動していた。深くかぶったマントはひらひら裾を揺らしていたが、所々が破れたり汚れたりしていた。それでも、足をとめない。泣き続けながら走っている。きっと強い子なんだろう。そう思ったら、思わず声が出た。


「どうした、の」


その子と距離が3メートルくらいまで詰まっていた時だった。声を掛けられた事に余程驚いたのか、その子はビクッと体を震わせて、まるでブリキ人形みたいにぎこちない動きで私を見た。


「なんだ、お前」
「死のうと思って海に来た通りすがりのお姉さんよ。怪しい者じゃないわ。」


何故だか知らないが、正直な言葉が口らか出ていった。男の子にしたら、身知らずの女から突然死ぬなんて単語が出てさぞ気味が悪いだろうと思ったが、どうやらそんなことは無かったらしい。彼の元々涙でぐちゃぐちゃの顔が、さらにぎゅっと険しくなって、綺麗な目に涙の膜が出来るのが暗い中でも分かった。


「…っし、死ぬな、」
「?なんでそんなこと言うの」
「コラさんは俺を守って死んだんだ、だから俺は生きなきゃいけない、だからお前も生きなきゃいけないんだ」


帽子から覗く少年の黒い瞳が、真っ直ぐに私を射抜いてくる。コラさんというのは人の名前だったようだ。そうか、彼も大切な人をなくした直後なのだろうか。えらいなあ、こんなに小さいのに、こんなに強い。逆に私はこんなに弱い。ロシナンテ、貴方の女はこんなにも脆いのよ。

涙が頬を伝った。少年の言葉に感動してとか、ロシナンテの死を思い出してとか、自分の弱さに頭にきてとかそういう理由じゃない。午前5時の潮風が痛すぎて、涙が出たのだ、そういうことにしないと自分を保っていけない。

次の瞬間には私は、数歩離れた距離の少年に抱きついて膝をかくんと折っていた。パジャマに砂がつくのも御構いなしで、突然で驚いたのだろう、立ちすくむ少年を膝立ちで強く抱き締める。何かに、縋りたかったのかな、私。どこまでいっても弱い女と、きっとロシナンテが見ていたら怒ったに違いない。


「ロシナンテ…!!」


少年の嗚咽が伝染したんだろう、涙があふれて溢れてどうしようもない。何でこんなに悲しいんだろう。決まってる、彼がいない世界になってしまったからだ。
少年は、ぎゅっと力を入れて抱きしめ返してくれた。どんな心理でそれをしたのかは分からない。分からないけど、誰かに抱きとめて貰えたのが嬉しくて、声を上げてわんわん泣いた。

一通り泣き終えたのを見計らって、少年は私に言葉を投げた。俺はロー。行くあてがない。いつか借りは返す。だから養ってくれないか。

たしかにそう言ったのを、今でも覚えている。まるで、今度はこの少年を生かすために生きろと、ロシナンテがプレゼントしてきたみたいだと思った。馬鹿、こんなプレゼント要らないのに。要らないのに、なんでこんな、この子の目は真っ直ぐなの。ねえ、ロシナンテ。帰って来て、教えてよ。

薄暗い海の目の前で、私はある一人の少年と暮らすことを決めた。


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