「おやまあ、ターコちゃんが気に入ってしまったのですか?」


不意に頭の上に降ってきた柔らかい声音に、ゆっくりと首を擡げて顔を上げる。すると必然的に、穴の淵からひょっこりと顔を覗かせているこれまた柔らかそうな癖っ毛を持つ少年と目があった。

紫色の忍装束が垣間見える事から、四年生だろうか。ターコって誰だろう。様々な疑問が静かに私の脳内を歩いて行ったが、どれも声に出さずに終わった。その代わりと言っては何だが、体育座りのままで小さく小首を傾げる。


「その制服からして、もしかしてくのたま五年生の先輩ですか?」
「あ、うん…君は忍たまの四年生、かな」
「はい」
「そう。こんなところでどうしたの?」


大分上方にいる彼には確実に聞こえるくらいの、とは言ってもあまり大きくなり過ぎない程度の音量で言葉を紡ぐ私を、少年は僅かに目を細めて見下ろしていた。太陽は丁度雲の後ろに隠れているらしい、彼の端正な顔立ちがとてもよく観察出来る。眼福眼福、なんて。


「先輩こそ、どうして蛸壺の中に?」
「ああ…まあ、ちょっと」
「落ちたのですか?」
「あー…うん、そんなところよ」


曖昧な笑みを浮かべてそう口にするとと、少年は心底不思議そうな顔をして、小さく首を捻った。そうでしたか、とあくまでも穏やかな声が私の鼓膜を叩く。可愛い後輩、だなあ。


「装束も汚れていないし、出る気もなさそうだったので、てっきり自分から入ったのかと思ってしまいました」


訂正しよう、可愛い後輩、と言うにはすこし鋭すぎるかもしれない。ぐ、と返答に詰まる私なんてまるで気にしていないように、彼は徐にその場に寝転んだ、と思う。穴の中からだからきちんと見える訳ではないけれども。でも、ガラガラ、と何か重そうな金属類が地面に置かれた音の後だったから、きっと間違ってはいないだろう。

それから少年は放漫な動作でこちらを振り返って、小さく眉尻を下げた。その、笑顔なのか何なのかよく分からない表情に、私も思わず彼の綺麗な瞳をじいっと見詰めてしまう。


「どうしたの?」
「空気です」
「え?」
「僕は空気ですよ、先輩」

全く掴めない後輩君だと思った。彼が青空に向かって気持ち良さそうに喉を鳴らすと、優しいウェーブのかかった髪がふんわりと揺れる。空気、か。空気というよりは空気清浄機じゃないの、という本音は静かに左心室に隠して、小さく小さく息を吸う。


「あーあ、何で私あんなこと言っちゃったんだろ…」
「……」
「あの子が悪い訳じゃないって、知ってたのに」
「……」
「この歳になって喧嘩とか…ほんと、男子かっていう話だよ、情けない…」


謝らなきゃ。最後にぽつりと浮かべた言葉は、外気に揺られてゆっくりと昇って、そうして蛸壺の遥か上にある雲に吸い込まれていった。淵の辺りで寝転ぶ少年は、何の反応も見せずにまだ空を見上げている。

というか私、なんでこんな事喋ってるんだろう。いくら空気だと宣言されたからと言っても、上級生として恥ずかしい事してるには変わりないと言うのに。しかも結局これって、私がいじける為にわざと蛸壺に入った事を暴露してるようなものじゃないか。ああ、もう。これだから忍たまは、とか、責任転嫁しても仕方が無いのだけれど。


「先輩」
「…はい」
「頑張りましたね、先輩」
「え」
「偉いですね。自分の悪いところに、ちゃんと向き合いたいのでしょう?」


偉い。偉い、私は、偉いの?
一瞬にして、自分に対する嫌悪感しか抱いていなかった頭の中が綺麗な色に塗り替えられた。どうしたって私が偉い、とは思えない気もするけれど、頭上で穏やかに微笑む少年が優しい顔のままでそう言うのだから、もしかしたら私は偉いのかもしれない。頑張ったのかもしれない。

今「ありがとう」と口にしたら、何故か少年が泡になって消えてしまう気さえして、慌てて口を噤む。その間にも彼はどこまでものんびりとした様子で立ち上がって、今一度穴の中を覗き込んできた。よく分からないけれど、胸が一杯になる。


「じゃあ先輩、また」


そう言ってあっさり消えてしまった少年。何だか夢みたいだった。ふんわりしてて、柔らかくて雲みたいに掴めなくて、するりと腕の間を抜けていってしまいそうな、そんな子だった。

それに思えば、結局、彼の名前もターコちゃんとは誰なのかも聞きそびれてしまった。…まあ、いいか。今度の合同授業の時にでも、立花君に聞いてみよう。それで今度こそ、お礼を言おう。私を認めてくれてありがとう、って、笑って言えたら一番いい。

そんな沢山の期待の中に、小さくて柔らかくて、それでいて強い別の気持ちが混ざっている事を知ったのは、少年が今度は「綾部喜八郎」として私の元を訪ねて来た時だった。



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なんで甘くならないのか自分でもよく分からない。綾部可愛いよ綾部。鬼畜な綾部もえる。夏野さん拙い文章でごめんなさい、RTありがとうごさいました!
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