久々の雨だ、と思っていたらインターホンが鳴った。時刻は午後九時半、こんな時分に一体誰だろうかと覗いたディスプレイの先には髪から雨粒を垂らす恋人のジャーファルさんの姿があった。マンションの入り口のロックを開けたのは、その数秒後の事である。
そうだ、
抱きしめよう
「ごめん、こんな時間に」
玄関に到着した彼は、開口一番にそう言って視線を斜め下に移した。もちろん私は、首を横にブンブン振る。
後ろ手でドアの鍵を締めるジャーファルさんはディスプレイ越しで見るよりもかなり派手に水を滴らせていて、見ているこっちまでシャツが背中に張り付く感覚を覚える程だった。傘を持っていなかったのだろうか。彼にしては珍しいと考えながらも玄関まで持ってきていたバスタオルを差し出すと、ありがとうと律儀な挨拶と一緒にジャーファルさんはそれを受け取った。彼が脱いだ靴からは驚く程大量の水が出てきた。しまった一枚では足りなかったか。
「全身びっしょりじゃないですか」
「傘ささないで走ってきたので」
「…なんか、ジャーファルさんらしくないですね」
「そう?」
「はい。あ、シャワー使いますか?」
「じゃあ、遠慮なく」
数歩後ろで体を拭きながらこくりと頷いたジャーファルさんをしかと確認してから前を向く。お湯は張ってないけれどいいですか、と聞くと構わないと返ってきたのでリビングを抜けてそのまま脱衣所へとジャーファルさんを通した。
彼がシャワーに入っている間に、絞れるくらいびちょびちょになったシャツと下着と靴下、それから彼の水分をたらふく吸ったバスタオルを洗濯機の中へと投げ入れてお急ぎのボタンを押す。ついでにスーツは力の限り絞ってからハンガーに掛けて、石油ストーブの近くに吊り下げておいた。クローゼットの中からジャーファルさんの寝間着と下着の予備を引っ張り出して、脱衣所に真新しいバスタオルと共に置いておく。
衣類関係の準備が済んだところで、今度はキッチンに行き躊躇いなく冷蔵庫の扉を開ける。あの様子だと仕事から我が家に直行してきたのだろうから、恐らく夕飯も済ませていないだろう。夕食の残りの肉じゃがとポテトサラダを取り出して、適当なお皿に盛り付け直した。
じゃがいも祭りのメニューで何だか申し訳ないなあ。そんな事を考えながらご飯をレンジで温めていると、脱衣所からジャーファルさんが姿を表した。
いつも思うけれど、風呂上がりの白い肌には殺人的なものがある。なんというかこう、含まれる色香の質が変わるのだ。いやこれ普通なら男性の考える事だけれども。
「シャワー、もらいました」
「はい。あ、ご飯、食べてきました?」
「いや、まだ」
「じゃあ良かったら食べて下さい」
「ありがとう、すまないですね」
じゃがじゃがした食卓にジャーファルさんが微笑みながらつく様を、なんとなくボーっと見守った。今日初めての笑顔だ。そう思った。
それからレンジにご飯を入れたままだった事に気付いて、少し慌ててその紺色ストライプの茶碗を掴んで運ぶ。火傷するから気をつけろとジャーファルさんは心配そうにしつつも、嬉しそうにいただきますを言ってくれた。こっちまで嬉しくなった事なんて、きっと言わなくても分かるだろう。
ふふ、と小さく笑みを零してから、少し離れたソファに赴いて徐に腰を下ろす。録画しておいたドラマを見る為にリモコンの再生ボタンを押しながら、振り返ってポテトサラダを静かに咀嚼するジャーファルさんの名前を呼んでみた。
「ん?」
「今日は会社帰りですか?」
「まあ、そうですね」
「連絡くれれば私も食べずに待ってたのに」
「…いや、急な雨だったから、雨宿りも兼ねて」
「そうなんですか」
雨宿り、ねえ。頷いて見せつつも、内心で腕を組んだ。
彼の勤めている会社からであれば、自宅に帰るのと私の家に来るのとではたった五分程しか変わらない筈。たとえ大雨とは言え、しっかりしすぎている性格の彼が五分を理由に私の家に来るだろうか。それに、傘を「忘れた」ではなく「ささなかった」と言ったのも引っ掛かる。
ああ、これはきっと、何かあったんだな。
ぼんやり考えながら、同じくぼんやりと首を戻して視線を液晶画面へと向ける。静かな空間は、四角関係を売りにするテレビドラマの程よい喧騒が繋いでくれた。
そうやって、十五分程経っただろうか。ちょうどドラマがCMに入り、ジャーファルさんにお茶でも入れようかと一度ソファから腰を浮かそうとした時だった。
突然、ジャーファルさんがソファの後ろからぎゅう、と抱き付いてきた。音も気配もなく抱き締められたこと、彼にこんなにも唐突に抱き締められるのは初めてだったことも手伝ってか、私は「ひゃ、」と何とも間抜けな声を上げてしまった。首もとに回された腕から彼の体温がじわりじわり、静かに確実に肌に浸透してゆく。心地良くて思わず目を瞑ると、ジャーファルさんの腕の力が強くなった。
「…ジャーファルさん?」
「……」
「…仕事で何かあった?」
「…いえ、別に」
こういう時だけは嘘が下手な人である。ただそれが可愛くも愛おしくもあって、私は回された白い腕に柔らかく手を置いて、もう一度目を瞑った。
ジャーファルさんは責任感のある人だから、私はいつも彼を頼ってしまう。彼に甘えてしまう。
けれど逆に、彼が私に甘えてくる事は無かった。
無論それには彼が年上だという理由もあるのだろうけれど、それでも矢張りジャーファルという人間は人に甘えようとしない。きっとそれは、会社でも同じだろう。何時だって他人を器用に纏めて、自らが寄り辺になって、肝心の自分自身では甘え方すらよく知らないひと。可愛いひと。大好きな大好きなひと。
途端に心臓の奥がきゅんとして、気付けば私は彼の手のひらをそっと叩いていた。俯き気味だったジャーファルさんを仰ぎ見て、その寂しそうな、ゆらゆら揺れる綺麗な瞳と目を合わせて口をひらく。
あの、良かったら隣に、座ってくれませんか。
この人を甘やかしたい一心で言いながらソファをポンポンと叩くと、ジャーファルさんは無言のまま私から腕を外してこちら側へと回り込んできてくれた。依然として口は閉じたまま、スローモーションのようにすぐ隣にゆっくりと腰を下ろしたジャーファルさんの綺麗な銀色の髪は、優しくふわりと空気を孕んでいる。
ただ、隣にきてもらったのはいいものの、どうや甘やかせば良いのか分からなかった。我ながら呆れたものだ。けれど、やっぱり手の遣り場すらどこが適切なのか定かでない。
どうしたものやらとオロオロしていると、まるでそんな私の心境を見透かしたかのようにジャーファルさんは私の首筋に顔を埋めてきた。
つまり、自ら甘えてきてくれたのか。心臓が今にも壊れそうだ。きゅん、てして動悸が収まらない。どうしよう、このままだと寿命がかなり短縮されてしまう。
私の危惧を知ってか知らずか、今度は彼の額がぐ、と強く押し付けられ、華奢で雪のように白い腕も私の反対側の肩へしっかりと回ってくる。
ああ、もう。辛かったのかな。ひとりで背負い過ぎたのかな。
そんな風に考えたら、何時の間にか手が勝手に意志を持って動き出していた。まだ少し湿り気を残した綺麗な銀髪をもつ後頭部から後ろ首にかけてを、ゆっくりと撫でる。何だかもう一生離れたくない気分だった。言葉もなく私に甘やかされてくれる彼が、ただただ愛おしい。
「…あとで、髪、乾かしてあげますね」
「…いいです」
「じゃあ、乾かさせてください」
「…お好きにどうぞ」
「ありがとう、ございます」
「……」
「……」
「…##NAME1##」
「はい?」
「…肉じゃが、美味しかったです」
「……」
「…また、つくって。」
はい、の返事が幸せに邪魔されて震えた。
ああもう、私は世界で一番あなたを甘やかしてあげたくて、宇宙で一番あなたに甘やかされたい愚か者です。
(千代丸さまへ愛を込めて)
(title:tiny)(20130211)
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