案外に小十郎は冷静で、まことの方が取り乱してしまっていた。
取り敢えず何か飲み物を、と言う小十郎の提案に、慌てて冷蔵庫から佐助が作り置きしておいた麦茶を出すと、興味深そうに冷蔵庫やグラスをまじまじと見つめる。
居間に移動してもキョロキョロと辺りを見回し、出された麦茶もしばらく見つめていたが、喉の渇きを思い出したまことがグラスを呷ると、小さく苦笑して味を確かめるように口に含んだ。
「旨いな・・・。麦湯を冷やしてあるのか。あれは随分と便利な箱だな」
「む、むぎゆ・・・?あれ、冷蔵庫って言うんです。あ!これ、この麦茶、佐助さんが作ったんです!」
佐助さんと小十郎さんは友達、という図式が頭にあったまことがそういえば、と声に出すと、ごくごく喉を鳴らしていた小十郎がぶうっと勢い良く麦茶を噴き出した。
「こっ、小十郎さん?!」
「ッ、まこと、てめぇ、ッゴホ、そういや猿飛と知り合いだと言っていたな・・・」
佐助とは武田の忍の猿飛だろう?どうしてお前が知っているんだ。と零れ落ちた前髪の隙間から鋭い目つきで睨めつけられ、まことは思わず背筋を伸ばしてごくりと息を呑む。
もしかして二人は仲が悪かったのだろうか。余計な事を言ってしまったのだろうか。
動揺して上手く口も回らないまことの説明を、小十郎は手渡されたタオルをまたじっくりと見つめ、顔を拭きながらも丁寧に相槌を打って聞いていく。
「つまり、ここは戦国ではない随分と先の世の日の本で、しばらく前に真田と猿飛が落ちてきて、そのまま二人と暮らしている、と」
「はい、幸村さんも、佐助さんもとっても優しくて、頼りになって、今日もアルバイト・・・お仕事、行ってるんです。帰るのは夜遅くになるって言ってました。佐助さんならもっと色々分かるかもしれないです!・・・でも、二人に影はありますし、小十郎さんの影がないのって一体なんなんでしょう・・・」
いくら考えても答えの出ない疑問に、シン、と二人の間に沈黙が落ちる。
外から小さく電車が走る音が聞こえ、興味を引かれたのか小十郎は縁側に立ち、垣根の向こうに見える電信柱が生え並び、遠く電車が走る現代の景色に目を瞠る。
「戦のない日の本か・・・」
どこか呆然と、しかし感慨深そうに頷く小十郎だが、その足元にはやはり影がない。
隣に立ったまことは、ただただ明るく陽が差す床の木目を心許ない気分でじっと見つめる事しか出来ない。
もしも自分が知らない世界に一人で行ってしまったら。見た事のない物に囲まれて、知らない人の中に落とされてしまったら。幸村さんと佐助さんは二人で来たけれど、小十郎さんはひとりぼっちだ。ひとりぼっちでわけのわからない世界に来てしまったのだ。
そう思うと人事なのに、悲しくて、切なくて、まことは思わず涙が滲んでしまうのだが、小十郎は「ああ、そう言えば、」とおもむろに袖を捲りあげ、肘に薄っすらと残っている傷の瘡蓋を剥ぎ取った。
「・・・っ、」
ふわりと香る、嗅ぎなれない鉄の匂いにまことはハッと顔を上げる。
「どうやら俺は影がなくなっただけみたいだな」
あの時のまこととは違い、肘から流れる血液は真っ赤な色をして一筋の滴を垂らしていた。
それを床に落ちる前に指先で拭った小十郎に、まことは慌ててティッシュを渡す。
「悪いな。・・・随分と柔らかい懐紙だ・・・こりゃいい」
「そんな、そんな、血、血が、」
普段見慣れない色にまことは再び取り乱し、思わず零れそうになる涙を必死に堪える。
辛いのは小十郎さんなのに、自分が泣くなんて見当違いだ。
ぐっと唇を噛み締めて肘を拭く小十郎の手元を見つめていると、「どうした?気分が悪いのか?」と落ち着いた、優しい声が頭の上から落ちてくる。
「こ、小十郎さん、ごっ、ごめん、なさい、ック、なんで、なんで僕、涙、ひ、一人で、こんな所っ、きて、っふ、不安なのは、小十郎さんなのにっ、」
「俺を心配してるのか?はは、お前に心配されるとはな。気にするな、お前だって『ここ』に戻れたんだろう?俺だって戻れるさ。・・・ああ、体調が悪いと気持ちも揺れやすい。ほら、そんなに唇を噛むんじゃない」
「ふっ、はぅ、こ、こひゅうろさ・・・」
わなわなと震える唇をそっと撫でられて、あやすように頭をぽんぽんと叩かれる。
その優しい振動にぽろりと涙が零れてしまったが、まことはそれに構わず浮かんだ疑問にふと顔を上げる。
「・・・僕も、『ここ』に、戻れた・・・?」
「ああ、お前が松永・・・あいつの牢から『ここ』に、この未来の世に戻ってこられたんだ。俺だって帰れるさ」
そこでやっとまことはある事に思い至った。
小十郎さんが戦国時代の人だという事には気が付いたけれども、そんな事、思いもしていなかった。
あの薄暗い部屋は、あの刀を持った男の人がいた所は、もしかしたら戦国時代だったのではないか─!
「それじゃ、僕、もしかして、」
気付かぬ内に自分は幸村や佐助、目の前にいる小十郎が生きる戦国時代に行ってしまっていた。タイムスリップしていたのだ。
「僕、僕、戦国時代に行ったんですね・・・!す、すごい・・・!」
「お前、気付いてなかったのか・・・」
「全然・・・全然気が付かなかったです・・・うわぁ・・・すごい・・・」
先ほどまでのしょんぼりしていた様子と打って変わり、頬を赤く紅潮させ、瞳をぱちぱちと瞬かせているまことに小十郎は思わず笑みを漏らす。
「お前がいるだろう?」
「・・・え?」
優しく唇を撫でていた指先が、ふいに顎に掛かった。
赤く染まった頬を擦りながら俯いていた顔を仰向けにされ、頭を撫でていた手のひらがつう、と耳の後ろをなぞり、項にかかる。
「お前がいるから、俺は一人じゃないだろう?」
熱のせいで過敏になっている肌は、固い小十郎の指先でなぞられただけでふるりと震える。
幾房か零れている前髪の隙間から覗く鋭い瞳は、佐助との関係を問われている時とは違い、じんわりと優しく、穏やかで、しかしどこか色気を感じるものだった。