森物語:冬椿4


怖かった。食べられてしまうかと思った。
もしあのまま食べられてしまっていたら、この慶次さんの温かさも、この慶次さんの匂いも、二度と感じる事はできなかったのだ、と思うと、ますます嗚咽が激しくなる。

「け、じさ、まこ、まこ、こわかった、けいじさん、けいじさん、」

慶次の匂いを胸いっぱいに吸い込み、雪と涙と尿で汚れて凍えた身体を慶次の体温で温める。
今まで毎日当たり前にしていた事が、どれだけ幸せな事だったのかとまことはしみじみ実感し、相変わらずイビキをかいて寝ている慶次の顔を眩しげな瞳で見つめては涙を零す。

「あっ・・・」

そして慶次の結い上げた髪を見つめて自分が何をしに外に出たかを思い出し、まことはぎゅうと握り締めていた手を開く。
小さな手の平から肉厚で瑞々しい椿をつけた枝が転がり落ちた。
その固い枝の切り口がまるで刃物で切り取られたかのように綺麗な事に、まことは鋭い狐の爪を思い出してまた身震いする。
慌てて狐の痕を消し去ろうとその切り口を前歯で削り、握り締めすぎて端が折れてしまった花弁を取り除き、まことは鼻をすすりながら椿を慶次の髪にそっと刺し込んだ。

「・・・きれい・・・」

毎日まことが手入れをしている長く艶のある慶次の髪。
それに真っ赤な椿はとても映えた。
いつも通りにぐうぐうと暢気ないびきをかいている慶次だが、まことの瞳にはその涎を垂らした寝顔はいつもの数倍輝いて映る。

───この椿を身に着けた慶次を見る為に、自分は頑張ったのだ。

そう思うと自分の涙や尿で濡れ汚れた情けない姿が急に誇らしくなった。
ぷるぷると震えているだけだった尻尾がハタ、と床を払い、青ざめていた顔に血の気が戻る。

とっても怖い思いをした。
そういえば、この時期はああいう狐のような者もいるから外には出ないようにしよう、と誓っていたではないか。
自分が馬鹿だったのだ。つい椿につられて出てしまったが、もうこれからはずっと慶次さんと、この温かくて幸せな巣穴に籠っていよう。

「慶次さん、まこ、おばかさんでごめんね?もう、外には出ないから・・・」
「いや、俺様結構そのおばかさんな所、好きだぜ?」

ひゅう、と閉めきっていたはずの巣穴の中に冷たい風が吹いた。
まことはその場で30センチは飛び上がると慶次の胸元にしがみついたまま、ゆっくり、ゆっくりと顔をドアの方へと巡らせる。
聞き間違えであればいい、怖がりすぎて幻聴が聞こえたのであればいい。
そう願うように思いながら振り返ったまことの視線の先には、しかし椿の木の下で会った狐が立っていた。

「さっきぶりだね子リスちゃーん。子リスちゃんの名前『まこ』って言うんだ。んー・・・まこ、まこ、・・・まこちゃん。うん、まこちゃん。名前までかわいいね」
「き、きつねさん、なんで、なんで、」
「・・・なんで?なんでここにいるのかって?」

ひょうひょうとした態度で開いたドアに背をつけて立っていた狐の顔に、まことの顔が強張るのとは逆にゆっくりと笑みが浮かぶ。

「あは、あそこからここまでまこちゃんの足跡が一直線だったから。それを辿っただけなんだけどね。俺様誘われてるのかなーって思ったんだけど・・・」

そう言って狐はまことの後ろの慶次に視線をやり頬を掻く。
そんな狐を見て、まことは自分のしでかした事に顔を真っ青に染め、硬直していた。
雪の上の足跡などすっかり頭から抜け落ちていた。
狐を巣穴まで案内してしまった。もう逃げ場がない。どうしようもない。食べられてしまうのだ。
そうしてまた瞳に涙を湧かせたまことだが、しかし自分の下で寝る慶次に気付くと首を振り、雫を払う。
慶次さんは、自分を信頼してここで冬眠している慶次さんは、何に変えても守らなければならない。

「そっちの猿の旦那は冬眠中?」
「っ、っ!け、慶次さんは、」
「猿の旦那の名前は『けいじさん』ね。・・・ははーん、旦那が冬眠中で独り身が寂しくなってついつい外に出ちゃった・・・ってところかな?」
「っ、あっ、だめっ!ダメですっ!慶次さんはダメですっ!」

一歩、巣穴に入ってきた狐にまことは声を張り上げる。
そして立ち上がると慶次を尻尾で覆い隠し、狐を見上げ、どうしてもこぼれそうになる涙を堪えながら口を開く。

「き、きつね、さん、た、食べるならっ、僕だけで、慶次さんは、ゆ、ゆるしてください・・・ふっ、た、食べるなら、ぼく、僕だけ、僕だけ、食べて・・・っ」

その瞬間、狐の瞳孔がギュウ、と縦に鋭くなり、その体がぶるりと震えた。
まことはその様子を息を飲んで見つめていたが、次第に狐の肩が揺れて笑い声が漏れてきたのに恐怖を感じ、ヒィ、と情けない声を上げる。

「はっはは、あはは!漏らす程俺様を怖がってたのに?まこちゃんはそっちの猿の旦那が大好きなんだね。ん、さっきの『ゆるして』って台詞、俺様ゾクゾクしちゃった」

ぱたん、と小さな音がして巣穴のドアが閉められる。
途端外の音が聞こえなくなり、シンとした巣穴にまことは思わず後退りしそうになるが、背中にいる慶次を思い出すと涙を零しながら自分に手を伸ばしてくる狐と対峙する。

「ああ、ああ、約束してあげる。猿の旦那には手を出さないさ。元から俺様の好みでもないし」

「そのかわり、まこちゃんの事はおいしくいただいちゃうね」そう言ってにっこりと笑う狐の鋭い爪が、まことの着ていた厚いセーターを引き裂いていく。
今にも卒倒してしまいそうになるまことだが、守るべき慶次の為、だくだくと涙をこぼしながら自分に伸びてくる爪先をただ見つめる事しかできなかった。
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