三千世界の鴉を殺し | ナノ




彼のことで俺が知っていることはごくごくわずかだった。また、彼が俺のことをどれだけ知っていようと、そんなことに興味はなかった。第一、俺には語れるだけのなにものも持ち合わせがなかった。
彼は、そんな俺のもとに気まぐれにふらりと訪れては、必ず夜明けより前に帰っていくのだ。


俺が起きているとき彼は、俺を抱くか、延々としゃべっているかのどちらかだ。
彼の話す言葉や話は、学のない俺には難しくて、言っていることの半分もわからなかった。
俺はそんな彼の言葉をただぼうっと聞いていた。彼は時折、酷く俺を苛つかせる言動をとった。俺がわかるもう半分の話、道徳とか、価値観とか、とにかく思想的な話のとき、彼はとても偏った意見を披露していた。俺が何か言い返すと、にっこりと笑って俺を否定し、言葉で徹底的に叩きのめした。俺が何も言えずにいると、

「君はそれでいいんだよ、それで、ね」

と訳のわからないことを言って、その話が終わるのだ。
彼の話は楽しくも悲しくもなかった。
ただ、彼の心地好い声がスラスラと言葉を紡ぐのを聞くのが好きだった。





その日も彼はふらりとやってきた。話は尽きない。内容はなんだっただろうか、恋愛論?経済学?心理学だったかもしれない。さらさらと流れる川のせせらぎのような彼の言葉がふつり、途切れた。
それが合図。俺を抱く、合図。
そうして今日も、彼に抱かれる。

気持ちの良い風がさわさわと吹き抜ける。いつの間に窓を開けたのだろう、まったく気付かなかった。柔らかい風に微睡む。彼は窓辺にいる。ぼんやりと光が感じられるから、月見でもしているのだろうか。
ふと興味をそそられてうっすらと目を開ける。彼はどんな顔をしているだろう。
薄く開いた左目でそっと彼を盗み見る。
ゆらり、紅い目が閃く。どきりとした。
彼はこちらを向いていた。俺がいままで見たことのない、寂しいような、切ないような顔をしていた。
目が離せなくなって、彼を凝視する。
赤い唇が、呟いた。



―――三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい―――



強く胸を叩かれたような衝撃。呼吸が止まる。けれども反応はしなかった。はずだ。心臓が早鐘を打つのが聞こえやしないかと思いながら、寝ているのを装って、寝返りを一つだけ打ち、布団に潜り込んだ。
他の客を取るとき、戯れに出てくる古い睦言。何故彼の口から出てくるのか、わからない。…わからない。
彼のほうを、見れなかった。
ドキドキと鳴る心臓を鎮める。酷く狼狽している自分に驚いた。
ふ、と彼が立ち上がる気配。と、と、と、気配はそのまま、出口のほうへ。すらっ、と襖を開けて立ち止まった。キツク瞑った目には、何も見えない。
クスリ、笑う気配。



「また遊んでよ、――シズちゃん」



すぅっ、たん。襖が閉まる。俺は布団の中でゆっくりと目を開けた。むくり、起き上がり、襖を見つめる。彼は出ていった。また、夜明けを待たずに。

彼が外の世界で何をしているのかなんて、知らない。知ろうとしなかった。それは、知っても仕方ないから。
俺には何もなかった。彼への想い以外。
彼が俺のことをどれだけ知っていようと同じだと思った。彼がふらりと訪れるのは、外に生活が有るからだ。それがわからないほど愚かではない。彼の心は此処にはない。ない、はず、だった。


あの言葉はどういう意味なの、何故そんなことを言ったの、どうしてあんなに切ない顔をしていたの。
どうして、どうして。
ゆっくりと目を閉じる。
ぱたり、雫が一粒落ちた。
音のない部屋に項垂れて、きつく、きつく、自分の身体を抱きしめた。



今、あなたを閉ざすこの扉、開け放ってその手を引いて、あなたと同じセリフを叫んだなら―――





fin.









都々逸「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」(朝寝の部分が『添い寝』とされていることもある)は一般に高杉晋作の作であると言われている(木戸孝允説他諸説有り)――Wikipediaより引用。

20101104.

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