自傷行為 | ナノ




 薄暗い室内には俺だけしかいなかった。当たり前だ、ここは俺の寝室兼書斎のプライベートルーム。事務所を兼ねたこのマンションの一室を自由に出入りすることを許可している有能な助手――矢霧波江――にも立ち入りを禁じ、彼女がいる時間帯は常に鍵をかけて、入れないようにしている、そんな部屋。それに、彼女はもうとっくに帰っている。壁に掛けられたメタリックなデザインの四角いデジタル時計は、日付が変わるのを待ちわびるかのように、音もなく時間を刻んでいた。
 ベッドサイドのライトだけが仄かな明かりを灯していて、黒衣を纏った自分は部屋の闇に溶けるようだった。
 習慣、あるいは中毒となってしまったこの行為は、ある種の儀式のようだ、ふとそう思った。
 黒いシャツの左袖をめくり、素肌を晒す。白い腕には、引き攣ったような醜い傷が、無数にはしっていた。ひとつひとつ指でなぞって、記憶を辿る。
 一番最初に付けた傷はもう消えてしまったんだっけ、ああそうだこの日は酒を煽っていて深く切り付けてしまったなあ。
 辿りついた一番新しい傷は、まだ赤みを帯びてかさぶたになっていた。これを付けたのは確か3日前だ。仕事があって池袋に行った。いつもなら池袋に来た途端に向かってくるあの狂犬が珍しく現れず、俺もラッキーに思って探さなかった。そうしたら、気を抜いていたわけじゃないが、仕事のほうで少しヘマをやらかした。池袋でシズちゃん以外に追いかけられるのなんて久しぶりだ、気分の昂揚と微かな苛立ちを流すように、ナイフで傷付けた。

 そしてまた今日も、こうやって。

 パチンと音を立ててナイフを開いた。仄かな明かりに反射して鈍く光る。俺は、右手に持ったそれを左腕に滑らせた。金属の冷たさに鳥肌が立つ。でも痛くはない。徐々に力を込める。プツリ、皮膚の裂ける感触。と同時に左腕に鋭利な痛み。そのまま真っ直ぐ線を引くように、またナイフを滑らせた。


「……ッ!」


 冷たい痛みに一瞬だけ呼吸が止まる。赤い血が流れ出る。傷に熱が集まる。俺は無表情で左腕の傷を見つめた。そうか、俺の血はまだ赤いのか。……よかった、俺はまだニンゲンだ。知らず知らず、安堵の息を吐いた。それから、壁に面したテーブルの上の救急箱に手を伸ばす。慣れた手つきで左腕の手当てをしながら、右手に残ったナイフの感触を思い出す。これくらいなら、人が死ぬことはないだろう。左腕の確信とともにこんな行為を続ける自分を嘲笑。何度も何度も、そんなことを確認して何になるのか。わかりきったことだろう、自分がニンゲンであることも、殺さない程度の人の傷付け方も。ナイフに付いた血を拭って自答する。俺は怖がっているのだろう。こんなに歪んだ想いを持った自分は、いつかニンゲンでなくなってしまうのではないかと。いつか人を殺してしまうのではないかと。
 何の意味もなさない自己満足の自傷行為。手当てを終えて、広いベッドに寝転ぶ。そういえばシズちゃんとやりあった日はコレやらないなあと、遠く思考の片隅で思った。しかしそれ以上深く追求することなく、襲いくる睡魔に目を閉じた。
 物音ひとつない部屋には、机に置かれたままのナイフだけが、鈍く光を放っていた。





fin.














思いのほか長くなった。
てか暗っ。

20110220.
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