「あっもしもし。もしもーし。名前サンですかぁ?わたし隼人クンと同じバイト先のぉ……」
頭の中で何かが冷める音がする。
懐かしの名前が画面に現れて、嬉しいような焦りのような今更何の用事なのか、少しの期待をしてみたり、と一瞬にして色々な感情がかき混ぜられた。一拍置いて通話ボタンを押すと、いかにもアルコールを含んだ、胃もたれするような甘ったるい声が脳内に媚びりつく。“隼人クン”なんて気軽に呼ばれて、相変わらず大学でも女に困ってはいないようで、腸が煮えくり返る。終了ボタンを押した数秒後にまた電話がかかってくる。これで最後だ。次もあの女からかかってきたら電話帳から名前を消そう。
「もしもしオレだけど」
「…オレオレ詐欺は古いよ」
「相変わらずだな。名前は」
「“隼人クン”も相変わらず女の子にモテモテなご様子で」
嫌味がわかったのかわかっていないのか、その乾いた笑いもアルコール臭いような気がした。「じゃあね」と電話を切るともう電話がかかることはなかった。

△▼△

「おめーさ今週の金曜ヒマ?」
「なに急に…」
「あー、フクちゃんと新開がこっちに来るから飲もうぜって、新開が」
「…新開が来るなら行かない」
「は!?お前ら別れてからまだ気まずいワケェ?」
「うるさいなあ。とにかく行かないから」
ちょっと適当に返しすぎたかな。まあ、荒北だしいいかな、別に。重ったるいため息を一つ吐きだして、金城くんに金曜日の飲み会について電話をした。マメな荒北は私よりも早く金城くんを誘っていた。私の人数分を彼で埋めようとする作戦は失敗に終わった。予約していたなんて言ってなかったから人数のことなんて気にしなくていいのだけれど。またため息を吐いて、次はミヤに電話しようと思った。でもさすがにそれは荒北が可哀想に思えて連絡帳からホーム画面に戻した。

△▼

金曜の夜ということもありバイト先の居酒屋はそこそこ忙しかった。シフト終わりに出される少しだけ脂っこい賄いを食べると胃も心も満たされた。やっぱり店長の料理は少しだけ体に悪そうでとてもお酒に良く合う。サービスで出してくれたお気に入りのカクテルをチビチビ飲んでいると、カランと軽快な音がお客様の入店を知らせる。店長のいらっしゃいませは所在ない心をすとんと落としてくれる大人の男性の声だ。入ってきた男の人は知っているようで知らない、でも絶対、知っている人。

「よっ名前」
「ん、名前チャンの知り合い?見ない顔だけど」
「新開です。今日高校の時のダチと飲みに来て。その後ここに来たんですよ。名前とも高校で知り合って」
「へー。じゃあチャリ部繋がり?」
私が唖然としている間に店長と新開で話がどんどん進んでいく。私が箱学でマネージャーだったこと。新開とは二年生で初めて同じクラスになったこと。荒北と同じ大学に進んだこと。そこでまた自転車部のマネージャーになったこと。店長が素敵な笑顔で新開にもカクテルを出す。どうやら店長は新開を気に入ったようだ。変わらずバナナが好きなようで、バナナミルクを頼んでいた。なんだか落ち着かなくて喉に通るカクテルの量が多くなっていく。
「名前チャン、ペース早くない?」
「…早く帰りたいので」
「そんな寂しいこと言うなよ」
変わらない新開の厚い唇が潤っている。私と別れた後に何人の女と愛を語り合って口付けているんだろう。しょうもないことを考えている辺り、アルコールが回ってきている証拠だ。もう帰りたい。

「店長、私帰りますね。ごちそうさまでした。また明日」
早口で言いたいことだけ言って店を出た。湿ったぬるい空気が纏わりついてきてひどく気分が悪い。どうせ私のバイト先を教えたのは荒北だ。イライラしながら荒北に電話をするが繋がらない。新開以外はどこで何してるんだ。イライライライラ。煮え切らない私にもイライラする。新開から電話がかかってきて以来調子が狂っている。今さら、なんで、新開のことなんて。イライライライラ。

「名前」
「……なに」
「何で怒ってんだ」
「…怒ってない」
「…やり直さねェ?オレたち」
「……は?」
「まだ、好きなんだ」

ひゅうひゅうと心臓が痛い。うまく呼吸ができない。新開から電話がこの前かかってきた時から、私は少しでも期待してしまっていた。新開と戻れること、新開の彼女になること。でも今の新開には私の知らない女の子がそばに居て、酔っ払えて、“隼人クン”なんて気軽に呼べて。叫び出しそうなくらい羨ましくて、心臓を掻き毟ってしまいたくなる。やめてやめてやめて。新開に新しい彼女ができるくらいなら、私に近づかないで。何も知らせないで、気づかせないで。私以外を彼女にしないで。そして気付く。私はとんでもなく嫉妬深くて面倒臭い女なんだと。

「嫌だ、新開」
「……」
「私以外を彼女にしないで、」
「うん。」
「こんな面倒臭い女だけどいいの」
「ああ。オレも面倒臭いから」

新開とキスをした。高校の時より深くてねちっこくて甘ったるいキスだった。キスうまいね。と言葉が漏れた。興奮した?て調子に乗ったから無視した。

「あの店長、名前のこと狙ってるだろ」
「あー、ないない」
「でもキスぐらいしただろ?」
「前の飲み会でほっぺにされた」
「もうやめろよ」
「うん。新開彼氏になったし」
「じゃなくて」
「…は?」
「オレ、嫉妬深いから」
汗ばんだ新開の手に力がこもる。私も新開にあのアルコール女がいるバイトを辞めてほしいと思っていた。似た者同士なんだな、て笑えた。とりあえず明日店長に新開とのことを話さなきゃな。なんて思いながら、私も強く強く、握り返した。