ひらり舞う背徳の美しさといったら

 からっぽになった部屋をつたうのは、夏らしいむさくるしい空気だった。ああ、ここは、こんなにも寝苦しい場所だったのかと、俺は無理矢理にまぶたをおしあげる。
 グレイの天井が、日光にくすむように反射して、ちかり。明滅的な視線を呼び起こしては引いた。

 ひとりで眠るベッドというものは、ずいぶん久しぶりな気がした。アメリカにいた頃はいつだって、母方のいとこ、氷室という疑似的な季節をてらったなまえを持たない、こいびと、彼女が隣に眠っていた。彼女はやはりというか、俺たちと同じように日本に帰ってきて、しかし、俺とおなじ部屋にはいない。
 秋田。思えばずいぶん遠いところまで、来た。
 胎児のようにまるまって、けれど触れることのできない柔肌は、とおく。とおいのだ。ただ触れようとするだけでは不可能なほどに虚無を噛む。かきまぜるようにシーツを抱く。彼女よりも0.5度ひくい、俺の体温。これもまた疑似には違いなく。

「私は東京で待ってるよ」

 たったひとりの子どもがとおくなるのは、親にとっては、それはそれはつらいことだろう。可愛い子には旅をさせよ、たしかにそうかもしれないけれど。彼女がいるからといって親に安心をあたえきれないと、そんなことはわかっているはずなのに。
 東京。
 とおい。物理的距離を寂しがるほど、俺は乙女ティックな人間ではなく、いまだに扉すら見つけられずもがいている、それだけ。バスケットをするためにだとか、たいそうぶった理由をつけて、それでも俺は決して才能をあたえられることはなかった。手のひらを、砂がこぼれおちてゆくように、それははらり、はらり、背徳の、甘美な飴を舐めるようにして。

 ────迎えにいくよ、なんて。

 自分から言い出したアイラブユウは、陳腐で、つまらない、たった6文字におさまるそれ。
 手をのばせば、そこにはスマートフォンがある。その気になればいつだって電話ができる。けれど俺は、彼女だって、いちども、離れてからはいちども鳴らさなかった。鳴らすことを無意味だとした。理由など、とうの昔に知れている。

 愛しいのだと擦り付けた感情は、とぐろを巻いて、やわらかく吐き出されては舌をなめる。ドラマや映画で見るようなこいびとたちのように、再会と同時に、たがいのくちびるをむさぼりあうようなことを、俺たちはするだろうか。できるだろうか。

 部屋のすみに、昨日の夜ランドリーから引っ張ってきた服が、ていねいにていねいに畳まれているのを見つける。俺は重たいまぶたで、首をかしぐようにして、微熱をかすめとるシーツのなかからからだを引き抜いた。
 ぜんぶ、そのまま。てきとうに巻いて、並べていた、それだけのはずなのに。俺はシャツとジャージだけをまとった重いからだを、ずるずると引きずるようにして、はだしでそのきれいに折り畳まれた山へとたどり着く。部屋着、外出用、練習用、ぜんぶいつもの俺の用途にあわせてつくられた山は、やはり自分のつくったものではない。
 この部屋にはいったことがあるのは、バスケ部の、劉、それから敦くらいのはずなのに、誰が。

 からっぽ。この部屋は、からっぽなはずなのだ。
 俺はひたりと、やはりはだしのままの足を、寮のじんわりとしたむさくるしさに向ける。ガチャリ、祈るようにして曲げた、押した、引いた────開いた、そのとびらは、解かれたままで。
 では誰がという疑問が一気に心臓をえぐりとるようにして、どくんと跳ねた。
 断続的に、しかしスタッカートを踏むようにして、どくん、どくんと。
 本棚にならんだたいして読まない教科書も。ベッドにはいりきれず床にこぼれたままの、寂しさをとりつくろうためだけのテディ・ベアも。ボロボロになってしまった、なのに捨てられないバッシュも。折り畳まれて、息をできないはずの山でさえ。
 どくん、どくんと、たしかにスタッカートを奏でていたのである。

 なぜ、どうして、きみが。
 陳腐な羅列に、なにもつたうことばはなく。そのままえぐりとられたままの、飾りを、あたためるようにして、そんなふりをして、脳内ごとかきまわすのだ。
 しかも、故意に。
 開け放たれたドアのむこうには誰もいない。たまたま通りかかった福井さんが、驚いたようにして、ぼくを見て。

「どうした」

 わからないままの4文字を叩きつける。青い部屋に広げたカーテンはいまだ、俺を這いつくばらせる。呆然としたまま、髪に邪魔されない右目をふるわせた。

「氷室?」

 まわりを、からかってばかりいるくせに、こんなときの声だけはひどく優しくて、だからこそこのひとが副キャプテンなのだと理解すると同時に、くちびる割ったのは、慟哭にも似た問いかけだった。

「少女を、見ませんでしたか」
「は? ここ、男子寮だけど。俺は同級生に呼ばれただけで」
「くろいかみの、」

 なまえを呼ばれた気がして、とっさに左目を手で覆い隠す。そんなことしなくても、あたりからは遮断されているけれど、どうしても。

「彼女が」

 俺たちの関係を恋人≠ニ、まだ胸を張って言えたのならば、俺の右目は、彼女を見つけることができたのかもしれない。
 ────まだぼくが、そのことばを、つかえることなく嚥下できた、ならば。


センチメンタル」様に提出させていただきました。氷室で、「コンテンツフリー」。つまり内容はご自由に、とのことでした。
モノローグばかりを重ねて、台詞で軽くチークを塗るような話をかくのが、すごくすきなのです。
企画様終了お疲れさまでした。タイトルは英雄さまから。
20130215

 

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