ビー玉の眼を見つめよう

 ──たとえば、きょうで、世界が眠りにつくとするならば、どうしようか。


 そんなことを言ったのに、特に理由はない。これといった用事もないのに押し掛けた緑間の部屋で、ただぼぅとわたしがみていたものは、『ゲルニカ』──彼のパブロ・ピカソが描いた、それである。

「世界が眠りにつく?」

 おなじ部屋でピアノを奏でていた緑間は、顔をあげて、まっすぐにわたしをみていた。

「そう、もしも、ね」

 明日には、眠りについてしまって、陽も昇らず、月も照らされず、電気もなにも流れなくなるのだとしようぜ。
 まっくらでつめたい、寒い世界。呼吸するのがやっとの、かたまった世界に、ふたりぽっち取り残されたとして。緑間は、どうするよ。

「…………さぁ、な」

 わからない? たずねてみると、彼にしては珍しい、素直な肯定が落ちてきた。

「……ふぅん。じゃあ言い方をかえてみようかな。『おは朝』がなくなるんだよ。放送されなくなる。つまり緑間、君は君のいうところの『人事』を尽くせなくなるわけだよ」
「……なんだと?」

 声音は明らかに剣を孕んだそれだ。わたしはくすくすとわらい、首にかけているチェーンにぶら下がったオパールの指輪を指ではじき、眉間にふかく皺を刻んだ彼をみつめた。綺麗な顔がそうして歪むのは嫌いじゃない。

「代わりをさがす?」
「……そんなもの、なんの意味もない」
「だよね」

 代理なんてね。美しくない。
 ねぇ、でもさ緑間。それはありえないはなしじゃないんだぜ。『おは朝』は永久じゃない。緑間がおじいちゃんになるころには、下手すれば成人するよりもはやく、高校を卒業するまでに放送が終了になる可能性だってゼロじゃない。意味がないっていまあんたがわりきっているものが、将来ひょっとしたらあんたを支えているかもしれないわけさ。

「月は、すき?」
「つき……? それがどうしたというのだ」
「月の裏側はひどくおぞましいものだと聞いた。そして、恐ろしい未知にたいしてひとは沸騰する。それとおなじで、わたしは緑間のイフのドアをノックしたわけさ」
「……わけがわからない、のだよ」
「緑間、君がもし人事を尽くせなくなったら、それも仕方がない世界で、わたしとふたりきりで取り残されたら。どうよ」
「なるほど、くだらんな」

 迷いのない一閃がわたしを薙ぐ。
 ピアノの黒をしめる手はきれいで、仕草のひとつひとつもていねいで。白が見えなくなったおとはすぐに吸い込まれていった。同時に彼自身も吸い込まれてしまったのではないかと、そんなばかなことを考える。
 それほどまでに優しくつめたい仕草で、彼は息を縫ってゆくのだ。

「もし、」
「うん?」
「もしふたりで取り残されるようなことがあれば、おれはおまえにすべてを渡そう」

 光を淡く募らせるグランドピアノから離れて、緑間は足音ひとつ立てず、わたしの傍までやってきた。

「……ぜんぶ?」
「天命はおまえにたくすといっているのだよ」
「は」

 正気なの、と問えば、冗談は好かないと。
 なんだそれ。

「意味わかってる?」
「わかっていないわけなどない」
「そっか」

 つまり緑間の人生は、運命は、ぜんぶわたしがいただけるわけだ。恋愛事には超≠ェつくほどの鈍感人間にして、こういったところは変に大胆な彼にわらってしまう。

「緑間ってさぁ、きれいな目、してるよね。ビー玉みたい」
「…………なにをみているのかとおもえば、『ゲルニカ』か」
「ひとのはなしは聞くもんですぜ、お坊っちゃん」

 それで世界が眠りについたら、などといっていたのか。
 納得されても困る。けれど緑間はわたしの見ていた美術の資料集をとって、片手で閉じてしまった。それこそまさに、くだらない、とでもいうように。

「……なんで閉じちゃうのさ」
「ふん」
「答えになってー、ないのだよー!」

 しゅっ、繰り出した突きはかるく受け流され、右手はむなしく宙にぶらぶら転がるだけになってしまった。緑間はなにをしたいのか、資料集をもったままで、今度は離れていく。木のテーブルにふせれば、すこし湿気た木のかおりがした。
 目を閉じれば、ゆらゆらと暖かいお湯に包まれているような気持ちになってくる。羊水に抱かれている胎児は、こんな気持ちなのかもしれないとおもうと、すこしむずがゆくなった。

 カラン──という軽い音ではない。ゴツン、そんな重たい印象が先走る音が鼓膜を突いた。目を開き、数度瞬きをしてから顔をあげると、そこには再び緑間がたっている。資料集はしまってきたようだ。

「これをやる」
「え?」
「返品は受け付けん」

 粗い木目に散らばっているのは、闇を称えたビー玉たちだ。近くに木箱もある。数を数えてみると、13個もある。部屋の蛍光灯の明かりにもたいして反射することはなく、色こそ違うが、その様は緑間の双眸と似ている気がした。

「ビー玉」
「なかを覗いてみるのだよ」
「なか?」

 ビー玉を持ち上げては光と照らし合わせているわたしだが、中を見ろと言われても、いまいち意味がわからない。とりあえず目の前までそれを運んで、数度瞬きをする。……やはりなにもない。

「黒いばっかりだよ」
「そうか、ここは明るいからな。すこし待つのだよ」

 カーテンをしめる気配と、しばらくして「電気を切るぞ」という低い声。うなずくと、カチリというプラスチックの音がして。

「わ」

 ────ビー玉のなかに、ちいさな宇宙ができていた。
 これは何座なのだろうか。目立つ星はなにもない。ただ中心にぼんやりとした光の集まりがあることしかわからない。

「プレセペ星団はみえるか?」
「わたし星には詳しくないよ。なにそれ」
「ビーハイヴ……散開星団M44だ。蟹座の小さな四角形のなかに、ぼんやりとした光の集まりがわかるか?」
「あー、うん。それならわかるよ」
「それがプレセペ星団なのだよ」

 ビーハイヴ。蜜蜂の巣。なるほど。
 蟹座ってどうやってできたんだっけ、と神話の記憶をたどり、可哀想な、けれどある意味では馬鹿で運のよかった蟹だったはずと自己完結する。苦しめられた犠牲者は枚挙にいとまがないとまでいわれるヘラのおかげで、星座になった蟹。

「よくこんなもの持ってたね」
「母からもらったものなのだよ」
「……なぜそんなものを易々と他人に贈れるのか」
「おまえにとっては他人でも、俺にとっては違うからな」

 木箱にビー玉をひとつひとつしまいながらそんなことをいう緑間に、え、と声をあげるよりも先に、よくなかを覗かずに星座がわかるものだと感心する。
 緑間は「貸せ」といって、わたしの手からもすぐに星を奪ってしまった。

「……ね、緑間。それってどーゆーこと? わたしに惚れちゃった、とか?」
「解釈は知らん。ただふたりで世界に取り残されたら、おまえに俺のすべてを渡そう、そう言ったのは俺だ。だから証をたてる、それだけなのだよ」

 テーピングされた左手が優しく、優しく木箱に彫られた星座模様を撫でる。そっか、とわたしは彼の手のうえに、自分のそれを重ねた。萎縮するようにふるえる彼をかるく握る。

「じゃあ、わたしもそうなったら緑間にぜんぶ渡しちゃおうかな。これで他人じゃないよ」

 緑間の部屋にあるのは、大きなグランドピアノと、ベッド、下げ棚、そしてわたしが伏せていたテーブル。それでもまだ余裕がある。学生の身分にはたいそう贅沢な広々とした部屋だ。こんな彼にわたしから証として渡せるものなど、なにかあるだろうか。

「なんもないな」
「いや、あるのだよ」

 今さらになってわたしの手を握り返してくれるあたり、緑間は不器用な人間なのだろう。大きな手は立派な男性のそれだった。

「それを」
「……これ?」

 彼が反対の手で指すのはオパールの指輪だ。別に高いものではないし、一点ものでもないから、プレゼントすること自体はどうだって良いのだが。
 わたしは左手をするっと抜いて、ネックレスをとる。緑間の前にちらつかせながら問いかけた。

「でもオパールは中世ヨーロッパでは不吉の象徴だったそうではないかね。緑間に不吉を押し付けることになりそう。これ色の戯れもわからないくらいちっさいし」
「俺は人事を尽くしている。迷信に飲み込まれたりはしないのだよ。それに、俺が人事を尽くせなくなったとしても、そのときはおまえが傍にいるのだろう?」
「違いないね」

 ちりん、緑間の左手に、虹色の石がおちる。
 彼の顔をみてみれば、彼の深緑を宿したひとみは、暗いなかでも木箱に眠る星のように、美しい光彩を放っていた。


アストロノート」様に提出させていただきました。
テーマ「あなたに×××をあげる」で、贈るものは「もしもの未来」「星空ビー玉」「オパールのネックレス」

『ゲルニカ』……パブロ・ピカソの代表的な絵画作品。スペイン内乱の際、スペイン北部バスク地方の小さな町ゲルニカに対する、ナチスの無差別爆撃に抗議して描かれたもの。ここでは『死と再生を願う』というモチーフで、『世界が眠りについたなら』という仮定につなげています。
20121212

 

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