優しい夜に甘えたい

「あっぢぃ……」
「文句言うなら部屋に帰りなさい」
「それはヤダ」

 盆休みに従弟がやってきた。
 部活が休みな間に! と、2泊3日でばーちゃんち。だという。私は長男の娘だから、祖父母とは一緒に暮らしていて、だから自然とこうしたときには従弟と出会うわけだ。
 そしていまなにをしているのかというと、小学生の従妹弟たちが花火をしているのを、蚊取り線香をつけて眺めているのだ。わたしと一緒にいる従弟──和成以外は、基本的にはとても幼い。それは父と妹弟との年齢が離れていることが原因としてあるのだが、わたしが大学1年、和成が高1、そしてほかはみんな小学生で構成されている。和成の妹もしかり。私はひとりっ子なのであまり関係はない。

「和成、ちょっとアイスとってきて」
「自分でいけよー」
「じゃあはい、じゃんけーん」
「えっ」

 咄嗟にグーを出した和成に開いた手を見せてやると、彼は絶望した! という顔をした。ざまあ。

「えー、姉ちゃんいまの卑怯じゃね!?」
「心理戦……とは違うか。人間の性質というものを利用しただけよ」
「うえ……」

 だがこんなときにちゃんとアイスを取りに行ってくれるのが和成だ。理不尽! などと言いつつも、結局したがってしまう。ひとが好いのだろう。

「姉ちゃん、チョコとバニラどっちがい?」
「バニラー」
「ならパピコはんぶんこ」
「チョコとバニラで聞いた意味」
「だってどっちも子供たちが好きなやつじゃーん」
「間違ってはないね」

 パピコはコーヒー味だからだろうか、うちのちびっこたちには不評だ。私は大好きだけど。和成からパピコの片方をもらって、きゅっぽり開封する。これはチョコレートコーヒー味ではなくて、ホワイトサワー味のようだ。白い。しかし、ううん、夏だ。

「和成、バスケ楽しい?」
「ん? そりゃもー、楽しいぜー。みんなぎゃあぎゃあ騒ぎまくっててなー」

 合宿の話を聞いていると、本当に楽しかったのだなと感じながら、それでもきつそうだという思いが浮き上がった。

「その緑間くんってひとおもしろいね」
「なー、真ちゃんはほんとおもしれぇっつーかなんていうか、もうイイコだぜ」
「え、あんまりイイコ≠チてかんじには聞こえなかったんだけど!?」
「いやあ姉ちゃんが言うのとはべつな意味で」

 和成はパピコを食べながら、木の板のうえで足を交差させた。屋内スポーツとはいえ、季節は夏だ。それなりに焼けていて、汗をぬぐう姿は色っぽい。小さかった彼も大人になりつつあるのだ。

「あっちい……」
「だから部屋に戻ればって」
「いやでもこの程度の暑さでバテてたらとてもバスケなんてやってられないし」

 まあ確かにそれはそうかもなと思いつつ、私は苦笑した。アイスを食べる。甘い。でも夏にはこのくらいの甘さがちょうど良いのかもしれない。

「小さかった和成もいつのまにかこんなに大きくなって」
「待って俺姉ちゃんとそんなに年齢差あるわけじゃねぇよ! 弟扱いは禁止!!」
「あはは」
「笑ってないで!」

 歳がいちばん近いこともあって、私と和成はそれなりに仲が良い。和成から見ればそれは弟扱いなのかも知れないが、私にとっては友人と似たようなものだ。彼は優しいし、気が利いて頼りになる。きっと他の従妹弟たちは私なんかよりも和成を頼りにしていることだろうし、男の彼に私が敵うことといえば、せいぜい料理と、勉強くらいのものだ。
 私は素足を絡めて、シャーベットと呼んだほうが正しいようなアイスを咀嚼する。氷のあとが舌を駆け抜けていく。冷たい夏の味がする。

「花火大会、明日かー……」
「え?」
「いきたかったなあ。明日の夕方にはおれ、もう帰るからさ」

 くすりと肩を揺らした和成が寂しそうに。
 夏休みの魔法がとけたみたいなしゃべりかたをするのだから。

「姉ちゃん、写メとって送ってくんない?」
「え?」
「俺も花火みたいですもーん」

 下手くそな敬語で誤魔化して、和成はこっそり笑った。チューブをくわえて、にししと。本当に花火が見たいのかと問われれば、それはそうなのだろう。とても──見たいのだろう。ここの花火大会の花火はとても綺麗なのだ。空が夜とは思えないきらめきを帯びる。追悼を押し込めた花火だ。8月15日。巡り巡った季節が終わる。

「なら、いまからみようか」
「え? いや、花火なら子供たちがみんな使ってしまってんじゃん」
「だから、花火見に行くの。やるんじゃなくて」
「いままさにみてるんだけど」
「そうじゃなくて。花火大会っていうの? そんなの。見に行こう」
「どこに?」

 きょとんとする和成の頬に、私は濡れた指を突き刺してみせた。
 首をかしげる彼を促すように立ち上がって、ふたりで移動をはじめる。食べ終わったアイスの残骸を途中台所で捨てて、ついでに口をゆすいで、そこにいたおばあちゃんにちょっと散歩してくるねと告げる。
 わけがわからないままに「俺も姉ちゃんについてくから」とおばあちゃんに言ったあとで、和成は私についてきた。少し早足で。そんなことしなくても、足の長い和成が私に追いつくなんてあっという間なのに。気づけば私より20センチ近く身長も高くなって、男の子なんだなあと実感する。

「見に行くって言ったってさ、姉ちゃん。姉ちゃんはよくても俺はあんまりよくないんだけど」
「なんで?」
「いや俺高校生だからさ! こんな時間に外出回ってるのは……」
「保護者同伴だからだいじょうぶだよ」
「あ、そっか。姉ちゃん大学生だからそれでいけるか」

 なんてあっさりしているんだこいつは、と思ったら負けなんだろうか。私のやっていることが間違っているとは思わないし、和成を騙しているつもりもないが、ちょっと他人を信用しすぎではないかとも思う。年にいちどやにど、そっと会うだけなのだから。
 信用なんて、築く暇もなかっただろう。



 何年前だっただろうか、たしか5年は前のことだったと思う。私がまだ中学生になったばかりのころだったから、もっと前だったかもしれない。とにかく彼はまだ小学4年生で、彼の妹は小学生になったばかり。そんなときに、彼がやってきたことがある。本当に突然ひょっこりとやってきたのだ。

 遊びに行こうぜ、という。

 大して親しいわけでもなかった、ましてたったひとりなわけでもなかったいとこ≠ニいう関係の、それでも彼は私のところに来てくれた。いま思えば、和成がひとりで行ける限られた場所におばあちゃんの家があり、私はたまたまそのおばあちゃんと同居していて、その流れで誘われたというだけだろう。元気な小学生であった彼に、なにかを考える余裕があったとは思わない。本能のおもむくままに。

「遊びにいくって、どこまで?」
「海まで! 砂の城つくっても、貝殻集めてもいいからさ、ちょっと姉ちゃん、付き合ってよ」

 私の腕を、よく焼けた和成のそれがガッシリつかむ。もとからそんなに色白というわけでもないのに、和成の日焼けというと、地黒なのだと言われても納得できそうな程度のものだった。それでもよく焼けて≠「た。元気に外を遊び回っている証拠だ。

「理由を聞いても?」
「いやあ、海なんて滅多に行かないからさ、なんだか急に行きたくなっちゃってよー」
「だからといって小学生がひとりで来るか」
「うん、問題とかまったくなかったし。宿題も絵日記以外終わってるしやることないしー」

 ……うん、なんて調子の良いやつなんだ。まだまだ8月の半ば、世の小学生は『夏の友』に「おまえなんか友だちなんかじゃねぇよ馬鹿やろおおおおお」とかかんとか叫びながら、それでも記された問題をざっかざっかと解いている期間のはずなのだが、要領の良い我が従弟のまえには友は屈服したらしかった。ひそかにざまあ≠ニかおもってどうもすみませんでした。ちなみに私はほかのどんな課題を終わらせても、『夏の友』だけはなかなか手をつけられなかった。タイトルが苦手だった。いや、この場合は呼称になるのかな。

「海まで?」
「そ、海まで」
「何しに? 和成はなにがしたいの? 泳ぐ?」
「さあ。何しにだろう。単に泳ぎたいだけかもしれないけど、べつにいまのおれはそんなでもねぇなー、ただ海に行きたいんだよ」
「はあ? んー、まあべつにいいけどさ……うちのそばの海に行きたいってことでいいの?」
「東京には濁った海しかねぇし」
「澄んだ海が見たいなら南国かヨーロッパに行きなさい」

 私がサンダルを履きながら言えば、和成は「なんでヨーロッパまで飛ぶの?」と首をかしげた。答えるまでの間に私は深く白いハットを被った。

「ヨーロッパは木を切り開いて文明を発展させたところだから、プランクトンとかがあんまりいなくて、川は知らないけど、海にはそんな濁りはないんだって。おじいちゃんが言ってた」
「へえ。ってことは、じーちゃんヨーロッパ行ったことあるんだ?」
「その話ではあるってことになってるけど、あくまでじいちゃんだからね。私は知らないからね?」

 念のために言ってやった。勘違いされて向こうのことを尋ねられても私は困るからだ。私は日本から出たことはないのだから、外国のことはたまにテレビで見る程度にしかわからない。

「俺も外国いきてぇなあ」
「なら海じゃなくてさらにそれを越えていけばいいじゃない」
「そーゆーわけにもいかないって。俺パスポート持ってねぇもん」

 のらりくらり会話を交わしながら、結局ついていくことにした私は、あまりテンションが高いとは言えず。
 和成と外に出れば、粗めのアスファルトが溜め込んだ熱が、サンダルのゴム越しに伝わってきた。お世辞にも心地良い熱とはいえない。むしろ不快に分類されるだろう。

「姉ちゃんってさ、あんま外出ないの?」
「え? なんで?」
「色、白いから。焼けないのかなーって」
「世の女子はみんな焼けたくないものなのよ」
「うえー……うちのクラスの女子みんな真っ黒だけど」
「そりゃ小学生と一緒にされてもね……」

 去年までその私も小学生だったわけだけれど、今回は見逃してもらおう。

「姉ちゃんおとなになったよなあ」
「へ? どこが?」
「ひとは気づかぬうちにおとなになってゆくものさ」
「……。あっそ」
「えっ、冷たい!」

 私は暑い、とぼやきながら、ハットの隙間からあきれるほど青い空を見上げる。夏だというのに、いや、夏だからか。私のきぶんはいまいち晴れなかった。暑さというものが苦手なのだ。
 いまはまってる曲にさ、と和成がいきなり言い出した。

「なんかきみを自転車の後ろに乗っけて坂道下ってくぜみたいなやつがあるんだけどさ」
「あら素敵な歌詞。私その曲知らないけど」
「うん、まあ、そんで、きみを自転車の後ろにってことは、この歌詞の語り部って自転車の運転席に乗ってるわけじゃん」
「んー、そうだねぇ」
「これ道路交通法違反じゃね?」
「なぜきみはそう夢のないことを言うかな」
「だってそうじゃね?」
「……否定はしないけどさ」

 少しくらいロマンというものを持っても良いはずだ。坂道を下ったさきの捕まったシーンは想像しなくてよろしい。というのが私の意見だ。

「姉ちゃんはそんなのに憧れたりするわけ?」
「しないね。和成がいうとおり違反だし、それ。道路交通法かは知らんけど」
「姉ちゃんもロマンと無縁な女子中生だね」
「うるさい」

 海に行くついでに、通り道のラーメン屋さんで、夏の間だけ売っているかき氷を食べることにした。100円という小学生にも優しい値段で、私は練乳いちご、和成はマンゴーを選んだ。本当はブルーハワイが食べたかったけれど、舌が青くなるのが嫌だったので、やめておいた。

「きーみっを〜自転車の後ろに乗っけったらー、この坂道を〜くだるのさ〜」

 さきほど言っていた曲だろうか、かき氷を食べながら、楽しそうに和成は歌う。小学生のくせにむちゃくちゃうまい。原曲は知らないけれど。

「はやりの曲より、マイナーなバンドのほうが好きなんだよね、俺」
「そうなんだ」
「カラオケ行ったことねえけど、行ったところでアイドルの曲も歌えねえしなー、俺」
「覚えればいいじゃん」
「えー、好きでもないのに? ヤダー姉ちゃんなに言っちゃってんの」
「…………」

 調子の良い彼は、日陰のベンチでけろけろと笑っていた。自信満々といったように歌う。まだ小学生でも、将来はきっとさらにかっこよくなるのだろうなと思った。
 練乳といちごの甘い味が、すうっと溶けて、消えていく。冷たいと思うことはなぜかなかった。夏のなかの冷えた感覚がゆったり漕げていたからかもしれない。

「和成」
「んー?」
「海でお城でも作ろうか」
「城?」
「いや、私そんなもの作ったことなくてさ。和成ってそんなの得意そうだから、ついでにつくっておこうかなと。記念?」
「俺も作ったことねぇよ! まあがんばるけどー……」

 ううん、悩んでいるようだった。得意でなくとも良いのだ。ただ、なにかをするのであって、けれどそのなにか≠ェ見つからないなら、思い出をかたちにしておきたいだけである。

「セミがうるさいねえ」
「でもこれくらいが夏! ってかんじじゃん」
「和成セミ捕りとか好き?」
「やったことねえよ!」
「都会の子だなあ。さすがシティボーイ」
「なにシティボーイって」

 食べ終わったあとのゴミはちゃんと捨てて、また歩きはじめる。次第にアスファルトはなくなって、真っ白な砂が、そこに巻きつくように生えたヒルガオが見える。砂を踏むと、ずっしり足元に沈み込んで、サンダルの隙間から小さな粒が押し入ってくる。鼻緒と軋みあって、それが不快だったけれど、いいや。気にしている余裕もなかった。とても暑い。
 汗で首に張り付いた髪を払う。
 風はやってこなかった。

「夏は好きかい」

 波の音に声がさらわれないようにしながら、問いかける。和成はとなりの、まだ私よりも低い視線のままで、私を見た。私にとってこの問いに意味があるのかと聞き返されてしまえば、それには眉を下げて笑うしかないけれど、そういうわけにもいかないのが苦しいところなのだ。べつの答えを用意しなければならないのだ。だが私は、夏が好きではない。それでもそんな夏に身を晒しているのは、きっと他でもない彼がそばにいるからなのだろうと思う。

「おれは……どうかなあ」

 だが、幸いなことに、和成は私に問い返すことはなかった。俺にはわかんないかなと、それだけで会話は終わった。ざあざあとカモメがいるわけでもない、ただ続いていく音をかき集めながら、ほうと息を吐く。
 さらに踏みしめるように背伸びをすれば、ざっくりと音を立てて指が沈んだ。緑色が見える。この町から見える海は、特別「きれい!」なわけではないけれど、この潮風のにおいとか、べたりとする空気とか、そんなものが私は好きだった。ただ焼けたくはないけれど。

「んじゃ、作りますか!」
「え?」
「『え?』じゃなくて。姉ちゃんが言ったんだろー、お城作るって! 手伝うから一緒にやろうぜ! 焼けたくないなら海の家かなんかでパラソル借りる?」
「えええええ」
「なんでそんなにビビるんだよ!」

 まさか本気で受け取ってもらえるなんて思っていなかった私は、にへらりとわざとらしい変な口角の持ち上げ方をした。和成は「でも作る」って言って、ひとりすたすた海辺に走っていった。
 いまよりもずっと華奢な背中だ。



「姉ちゃん、なに考えてる?」
「昔は和成も可愛かったよなあって」

 あの頃とはすっかり変わってしまったのは、私だけではない。粗めだったアスファルトはもう細やかなものに変わってしまっているし、私もあんなに幼くなくなった。あの海には、遊歩道ができてしまった。そのせいで砂がぶわぶわと飛んできてしまう。あのときのハットはどこにやったっけ。

「えー、高尾ちゃんは今でも可愛いけどー?」
「こらこら、私も高尾ちゃん≠セって忘れてるでしょ」
「そうだった。いっつもこう言ってるからなー、うっかりうっかり。かずぺろ」
「なにかずぺろ」

 はじめはとなりに並んでいたけれど、気づけばくるり足先を回した彼が、私よりも先を歩いていた。すぐに海に向かっていることは、わかったようだ。

「かき氷食べたい」
「さっきパピコ食べなかったっけ?」
「いやあ、まえ姉ちゃんがかき氷食べに連れてってくれたじゃんかー、ついでに? つうかんじでー。そのラーメン屋ってここらへんだったよなって思い出した」

 和成も私と同じことを思い出していたのかと、私は目を細める。少しうつむきがちに。

「ああ……おじさんが体調崩しちゃったから、いまはもう閉まってるんだよね」
「ふうん。時の流れ感じるな」
「そうだねえ。歳とったわー」
「…………。お、おう」
「なんでそんなにばっちり黙ってるんですか」

 けらけらと鳴く声は、いくつかの降下をたどって、確実に大人のものへと変わっていった。彼の歳ではまだなのだと──そういったひともいるかも知れないが、和成は大人への階段をのぼっていた。
 いつかの懐かしむあの日を見つめて歩いていても、私のまわりを囲う景色はだいぶ変わってしまっていた。和成が変化を感じとるように、彼にも同じような変化があることを寂しくおもう。それはやはり、古い記憶を探しているということになるのであって、私は歳をとったことを否定できないのだ。

 たとえば、あなたが好きですという思いも。

「姉ちゃん、これほんと、どこに行ってんの」
「あのラーメンとかき氷のおじちゃんね、店はもう閉めてるんだけど、ちょっとしたボランティアみたいなのやっててさ」
「ボランティア?」
「正確に言えば、花火を弔いに打ち上げるの」

 お盆というものは、先祖参りのためにあるものだ。明日の花火大会は、ご先祖さまを見送るためにあるのだが、そのおじさんをはじめとする町内会の一同は、町からよく見えるように、ご先祖さまが家族と楽しめるように、ほんの10分くらいだが、花火を打ちあげる。
 ここ数年のうちに咲いたイベントで、そのあいだは基本的に地元の人間は家を離れることはない。ご先祖さまと見る花火だからだ。

「あ、はじまった」

 ヒュルルル、と軽快な音から、夜空に大輪が咲く。きれいなきれいな、花火だ。

「……知らなかった」
「うち、あんまり誰も花火見ないもんね。家では。子供たちは自分でやりたがるし。しょうがないか」

 パァンパァンと、ひとつの音楽のように花火が空に散っていく音が聞こえる。それを聞きながら、頭ひとつぶんうえの彼はなにを思ったのだろう、とんとん、私の数歩まえにステップを踏んで移動する。私がついていこうとすると、目のまえに手を置いて、立ち止まることを要求された。

「姉ちゃん、いまからちょっと俺歌うから」
「え?」
「せっかくだからな。なつかしのナンバー!」

 ジャランと振った腕は、もしかしなくてもギターのつもりだろうか。とすると、花火をドラム代わりにするのだろうか。

「きーみっを〜自転車の後ろに乗っけったらー、この坂道を〜くだるのさ〜」

 楽しそうに。本当に楽しそうに歌うのだ。にっこりと笑って、目を細めて、いつかもここ歩きながら歌ったよなあと、そう言わんばかりの表情で。
 なんとコメントするべきか悩んだ。だって私には、その曲は懐かしすぎたし、でもいまとなってはウォークマンで再生数ナンバーワンの曲であるし、つまり私は和成に響かされているのだ。
 エアギター。そんなことはわかっている。だけど、私にはちゃんと聞こえてしまうのだから、仕方がない。
 やがて演奏を終えた和成は、満足そうに息を吐き出した。同時に花火も止んだ。みたいって言ってたのに、和成はほとんど背を向けたままだった。

「どーよ、俺、歌うまくなったろ」

 自信満々の笑顔も、なにも変わっていないではないかと思った。成長しただけなのだ。私も、彼も、この景色たちも全部引き連れて、成長しただけ。そう思えば寂しくなどないと思った。ふとしたことだった。
 好きな曲しか覚えない彼の、好きな歌。
 聞けばくちのなかにはなぜか、いちごと練乳の、きっともうにどと食べられないかき氷の味がよみがえる。

「でもさ、これやっぱ道路交通法違反じゃね?」

 変わらないけろりとした笑顔で和成が言ってしまうのだから、私もつられて笑ってしまった。

「なぜきみはそう夢のないことを言うかな」


黄昏」様に提出させていただきました。
20130826

   

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