いつの日か終わる少年時代へ

 ふと足を持ち上げると爪先が小石を蹴った。排水溝の網にぶつかったそれはチリチリと焼けるような音を残しながら、水のなかに落ちた。おれは汗だくのからだで、膝に手をついてゼエゼエ無様に、おまけにげほげほ咳までしていた。
 夏の暑さは内臓を焼く。
 ぐるぐる回転していたはずの景色が落ちぶれて、おれはもういっそのことこの場に転がってぜんぶ捨ててしまいたいとすら思った。なにをって景色をだ。焦げた内臓ごと排水溝にぶちこみたい。
 石ころまでマグマになっちまうんじゃねえのかなとか、そんなことも一瞬考えたけれど、網に引っ掛かったそれは汗のひとつもかかない。無生物。今に知ったことではない。ただおれはだらだらと全身汗だくでシャツも下着にすら汗が染みているのに、なんでこいつらは。

 スポーツドリンクを持ってくればよかった。ひそかに思う。というか、持っていかなかったことがバレたら、のちのちレオ姉とか赤司に怒られて、監督にも注意されるのかもしれない。とりあえずレオ姉のお説教を聞く羽目にはなりそうだった。自販機で、などという言い訳も使えない。だって市販のスポーツドリンクは甘すぎるし濃すぎるしで。あれを半分に薄めなきゃあ飲めやしない。
 息をととのえ、おれは再び走り出す。筋肉痛などはまったく知らないからだだが、もう何キロ走っただろうか、さすがに疲れてきた。いまは校舎に戻りながら走っていて、けれど寺や家を迂回しているのでなかなかに長距離だ。それを選んだのは自分で、馬鹿なことをしたかなあと自嘲に沈む。

 走るたびに表面を撫でていく風は内面を冷やすことはなく、額からだらりこぼれたひとしずくが、おれが暑がっていることを教えてくれる。
 猛烈に濡れたくなった。
 もう嫌なくらい汗でぐっしょりなのだから、これ以上どう濡れるのというかんじでも、要因が違えばまったくべつの感覚が降る。雨よ、降れ。梅雨明けしたばかりの空はぎらぎら明るくて、それがおれをさらに参らせた。

「葉山?」

 足を、とめる。たんたんと段階を踏むように。
 彼女はいた。ちょうど目の前に。真っ白なワンピースと麦わら帽子がひどく似合う。おれはなにも言えず、無様に肩で息をした。喉も気づけばカラカラになっていた。

「びっくりした。ロードワーク中?」

 きろりとサンダルでおれに駆け寄った彼女は、そこでおれが汗だくであることに気づいたらしい。びっくりしたように目を見開いて、おれに手を伸ばした。ので、避けた。汗まみれなのに触られるのはちょっと気持ちわるかった。というか、居心地が悪いというか。

「これ、飲みなよ」
「え?」

 彼女はショルダーバッグのなかからペットボトルを取り出した。どうやらポカリスエットのようだが、おれはみじろぐ。これは彼女がまず彼女自身のために用意したものなのだ、自分が飲んでいいわけがない。
 日差しにじりじり焼かれながらおれが戸惑っていると、しびれを切らした彼女がペットボトルの蓋をとって、ずいと差し出してきた。どうやら譲る気はないようだ。

「ちゃんと薄めてあるから! 飲みなさい!」

 彼女はおれが受け取らない理由を勘違いしているらしく、気にかけていなかったといえば嘘だが、まあそんなことを。くちにする。
 ここまで言われて断るのも失礼かと思い、それを受け取ってひとくち飲んだ。返そうとすれば、「もう1本あるからぜんぶ飲んでいいよ」と言う。……そんなわけにもいかないような気がする、のだが。

「葉山ってあんな表情して走るんだね」

 とりあえず近くの公園にはいることにして、おれに濡らしたタオルを渡しながら彼女は困ったようにつぶやく。まるで問いかけられているようで、おれは素直に首をかしげた。事実、よく意味がわからない。
 ひんやりしたタオルは全身をしっかり冷やしてくれた。おかげで怒られずに済む。このことには感謝だ。あのまま走り続けていたら、そのまま病院コースもあったかもしれない。

「……うん」
「バスケ部も大変?」
「うん」
「でもバスケすき?」
「うん」
「さっきから『うん』しか言わないけど」
「……、うん」
「聞いてる?」
「うん」

 言葉をぶつけるだけのつまらない会話には、どうやら彼女もあまり興味はなかったようだ。ベンチの、おれのとなりに腰をかける。暑いからだろう、拳ふたつぶん、スペースがある。
 彼女は身に付けたワンピースのようにまぶしいひとだ。焼かれた内臓が重たさにずぶりと痛んだ。

「スポーツドリンクもなにも持ってなかったの?」
「うん……うっかりしてて。えへへ」
「このおっちょこちょい」

 彼女と話すときの感覚は、ペネトレイトのときのそれと、すこし似ている。わあっと高まって、極限まで指に意識を集める。ちからづよく打ち付けたボールは誰にもとられることはない。ドライブ中のおれは、まさに無敵≠ナ。
 なのに緊張するのだ。わあっとかき集められたようなそんなあわだった感覚に身をよじりながらドライブをする。
 ずんと重く刺さる。

「助かったよ、ありがとう」

 小さく見えると言われる。
 おれはよくかがむ。走る。ちょろちょろと、動く。
 まわりがでかいこともあるんだろうけど、なんとなく小さく見えるのだと、よく言われるのだ。身長は180センチ、日本人男子として、決して小さいということはない。それなのに。
 彼女のほうがよっぽど小さいのに。

「どーいたしまして」

 ベンチから立ち上がり、楽しそうにくるり、スカートをふわりとさせて振り返る。すべてがスローモーションに見えた。彼女のまわりだけ時間が止まったといえば、大袈裟だろうか。
 いまだに自己管理も他人に放り投げてしまっているおれと、他人の面倒まで勝手にみてしまう彼女と。じっとり汗をぬぐいながら、おれはおもう。

 彼女はまぶしすぎる。


アストロノート」様に提出させていただきました。
テーマ「憧憬」
20130702

 

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