左胸に残骸
「ねぇ、先生=B私のこと、嫌いですか」
夜の静寂ばかりがあたりをくるんでいた。
私と先生≠フ関係は、もはや先生≠ニは呼ばれるものではないのかも知れないけれど、それでも私は何年もその呼称から離れられずにいた。20以上も歳上であり、数年まえまでは確かに先生≠セったひと。
「あなたもでしょう?」
「っ、否定、しないんだ」
「あなたも。否定しませんね」
だいきらいなタバコの香りが染み付いた部屋、となりの部屋から聞こえてくるおんなの声、それはつまりここがそういった場所であることを示していて、同時に私たちの関係も現しているのだった。
「先生≠ヘ、私のこと、嫌いでしょう……?」
「わかっているならわざわざ尋ねなくても良いのではないですか」
くん、わずかにでも涙をすするふりをして鼻をこすれば、黄ばんだ壁の薄気味悪さが一気にふくれあがった。先生≠ヘ私には一瞥もくれず、そのままスタスタとわずかに濡れたベッドへ向かう。
私を呼ばずに、そのままころんと寝そべる。いくつになってもその仕草は優美なばかりで、前髪をいつものようにゆびさきにくるみ、弾く。それすら息をしているように思えた。
「先生=A」
「なんですか?」
「先生≠ヘ私のことを、好きですか……?」
さきほどとは逆の問いを重ねながら、彼に近づく。腕の影のなかから覗いたひとみが細められる。まぎれもない軽蔑のひとみだ。いまでは慣れてしまったもの、でもある。
「好き……では、ないですね」
あまりにもあっさりと、彼は別れを告げるのだった。恋愛面で私たちは交わることはなく、ただけものの本能だけに突き動かされているのである。けもの。紛れもなく私たちを、ひとことで潰しあげられる言葉だ。
「きらいですか」
「……さあ」
まつげに怠惰をひっかけて喉を鳴らす。指先がゆるりと宙を泳いだかと思えばそれはなにをつかむこともなくわずかに傾いで、結果的に私は、だまる。
まだ私がちいさな、なにも知らないこどもだったころのはなし。先生≠ニは、なんでも知っている存在なのだと思っていた。だって先生≠ネんだもの。知らないことなんてなくて、私にどんなことでも教えてくれる存在。
それは正解であり、そして同時に不正解としてもまぶたのうえにのし掛かってきた。
確かに先生≠ヘ、教えてほしいこと、ほしいもの、すべてを私にくれた。でも、それだけではなかった。たぶんふつうに生きていれば知ることも知る必要もなかったようなことを、そっと折り畳んで私の心臓に彫り込むのだ。
ずるいひとなのだ。
「…………あなたは」
違う感情をぶらさげた言葉をだらだらと無意味につるしていく。
いまさらどうということはない。私と先生の間になにかあるのかと聞かれても、特筆すべきものはない。
あるとしたら亀裂だとおもう。これがさらに広がってしまえば、私たちは笑顔でドカンだ。
「……私が、爆弾を持っているとします」
「ん、……原料は?」
「知りません。ただ爆弾を持っているのです」
たとえば、時限爆弾とか。爆弾に拘る必要はない。カンタレラなんかの、劇薬だって構わない。ただそれが私たちのどちらも殺してくれるものであれば、良いのだ。
「私が、それで。一緒に死にたいって言ったら、どうしますか?」
さらに深く、問いを重ねていく。先生≠フ目前に指だけでつくりだした箱の輪郭は、ゆるくぼやけた。そのファインダー越しに枯れた目を細めれば、かれは。
「お断りします」
からりと笑った。
「おひとりでどうぞ。私もひとりで逝きます」
生に執着などはないのだろうか。身長は私より頭ひとつおおきくて、手のひらもひとまわりおおきくて、声はずっと低くて、そのくせにタバコでゆるく焼いている。私のまえでは絶対に吸わない、でも、たとえ1本をくわえるごとに5分半ずつ寿命が削られているといっても、このひとは何も迷わず火をつけている。私は知っている。
まだ私が生徒で、このひとが教師≠セったころのはなし。遠い遠い昔のおはなし。いつか、いつか私たちの関係が変われば。
変われたのだろうか。答えはノーだ。先生≠ヘずっと先生≠フままで私を待ち続けていた。以上も以下もなく。ぼんやりタバコを吹かしながら。私の影が視界にはいると、わざとらしく先端を鈍色のなかに沈めた。
「私はね、あなたを愛したいと思っているんですよ」
明らかな、あまりにもわかりやすい拒絶と嘘とをかき混ぜながら先生≠ヘ笑う。嘲笑だった。この笑顔も見慣れてしまった。
じり、じり。にじみ寄る。
たとえば、たとえば私が爆弾を持っている。ふたり一緒に死んでしまいたいとする。でも先生≠ヘそれを拒む。私は爆弾を投げる。
そのとき先生≠ヘ、逃げるだろうか。私を突き飛ばすだろうか。
死にたくないのではなく、それが心中を嫌うことばであったのならば。
「ねえ、先生=v
これが最後の問いと、言い聞かせながらさらに近づく。静寂とはほどとおい東京のネオンがじんわりにじむ騒がしい部屋のなか、私たちの距離はひとつふたつと食べられていく。主語が私なら、食べていると、能動的になる、か。
「なんですか」
いとも容易く。問うてみせる先生≠ヘ、きっと私がどれだけずるくて汚いかなんて知っている。知っているから、嘲笑ばかりをみせるんだ。
「私が爆弾を持っているとします」
あなたは私を、すきですか、きらいですか。答えは知っている。いまさらの海に流すつもりはない。そこに流すのはボトルメッセージだと、相場が決まっているのだから。
「爆弾はここにある。皮膚の向こう、血管の群れのさき」
心臓をわしづかみにして、近づく。近づいてみせる。私は最後の息を吐き出した。
「爆弾を、とめてみせてよ」
もうそれ以上にはなにも望まないから。
あなたが植え付けてしまったこの呼吸法を、根こそぎ奪ってほしかった。
「センチメンタル」様に提出させていただきました。今回もコンテンツフリーだったので好き勝手やってすみませんでした。楽しかった!
企画様終了お疲れさまでした。タイトルは英雄さまから。
20130425
← →