君の優しい裏切り

 よく覚えてはいないけれどもしかすると自分は多大なる間違いをおかしてしまったのではないかと、そう予感したのは今朝のことだった。高校を卒業して恋人であった火神くんはアメリカへ行ってしまった。私ももちろんそれは知っていたけれど、私にアメリカまでついていくだけの思いはなかったから、ああ、私たちの恋はこれまでなのねと笑みを透かして、サヨナラをした。
 なんてふがいない、こんなあっけない終わり方。高校に入って3年、いつだってそばには必ず火神くんがいた。いたのに、それなのに、私は結局なまえのひとつさえ呼べぬまま遠ざかっていく飛行機を見送ったのだ。空港ではなく、自宅で。ベランダで携帯をさわりながら、空にまっすぐな白線を引いていった飛行機を。

 そもそもどうして付き合うことになったかといえば、それは彼が入学式の日に私を水溜まりに突き飛ばしてしまったからだった。わざとではなく比較的小柄な私が見えなかったらしく、お詫びから恋がはじまるという少女漫画のような展開。
 それでも確かに恋だったのだとわかっている。いまでも好きだ。ただ子供でもいられない、それだけだった。

 ……けれど、火神くんがいなくなって、何度めだろう、何度も何度も夢をみた。
 おおきな手のひらで焦りながら立ち上がらせてくれたこと。
 お詫びだといって手料理を振る舞ってくれたこと。
 なんでもするから許してほしい、なら付き合って、たったふたことで交わされた約束の有効期限は、いつまでかな。
 別れようと言ってはいない。向こうも言わなかった。サヨナラは、した。たぶんそれはどちらにとっても恋の別れではなかったのだ。


 私はぼんやりとした頭を叩き起こして、顔を洗った。高校を卒業してひとり暮らしをはじめた。そういえば火神くんはそれを応援してくれたが、結局ここに来ることはなかった。約束だけして、この約束ももしかするとまだ切れていないのかも知れない。

 がんばれ、帰ってくんなよ!

 私の見送りのことばはそれだけで、彼も不貞腐れた表情を隠さず私に拳をつきだして、さぁ、これで終わり、さようなら。最後の会話は卒業式だが、きっとバスケ部の仲間だったひとたちは私と会わなくなったあと、アメリカに出発するまでの間にも彼とたくさん会ったのだろう。
 私にはそんな勇気はなかった。なかったから、別に羨む気持ちはない。私より、彼らと、ともに戦った仲間たちと思いを共有したがゆえの絆があってもなにもおかしくはないのだ。思えば、今さらかもしれないが、私たちはいままで、恋人が見舞われるような事態にはまったく陥らなかった。口約束だけの関係のくせに、浮気もなかったし、喧嘩だってしなかったし。

 恋心は失われていない。けれど、私は火神くんが嫌いだったのだ。だいきらいだったのだ。
 振り回されつつ嫌な顔ひとつせず、練習続きでデートができなくても文句を言わない私に頭をかきながら謝罪して、たまにデートをすればどこのレストランよりもすてきな料理をつくってくれて、それよりも少ない、抱き締められた思い出、キスをした思い出。ぜんぶが嫌い、だいきらいなのだ。
 なんであんなに優しくされたのかがわからない。情ひとつで、どうして。

 ────違ったのだと気づいたのは、今朝のことだった。
 逆だったのでは、と。好きだったから、疑問を持ちつつすべてを受け入れたのではないか。

「ば、かじゃないの、わたし」

 どうして気づかなかった。
 なぜわからなかった。

 自分の馬鹿さがどうにも滲んでしまって、にぶいとかそんなかわいらしいことばで装飾することもできず、私はその場にへなへなとしゃがみこんだ。
 火神くんは、きっと私を飲み込もうなんて思ってない。もがけばその手をはなしてくれる。だからサヨナラ≠セったのだ。離されたのは手だけ、それだけであって、心は離れてくれない。いまさらになって好きだとか愛しているだとか、そんな鳴き声をあげる私を、彼は笑うだろうか。嗤う、だろうか。

「たぃ、が」

 はじめて呼んだなまえ。そういえば高校のときは、よく虎≠セと、タイガー≠セと茶化されていたっけ。わずかな粒ですから残さず私のなかをあふれて止まらない。たまらない。
 好きだったのだ、たまらなく、愛していたのだ。

 約束の有効期限は、ねぇ、いつなの、教えてよ。アメリカなんかに行かないで。帰ってきてよ。私のそばにいてよ。
 ねぇ、私は欲張りなの。だから大我がそばにいなきゃやっていけないよ。ねぇ、大我。

 ひとり暮らしをはじめた。遊びにくると、約束をして。
 インターホンが鳴る。私は重たいからだを持ち上げて、「どちらさま」ですかと、扉の向こうに声をかける。きっと、お母さんがなにやら荷物を送ってくれたに違いない。そんなことを電話でも言っていた。それなのに。

 あなたの声が聞こえてくると、期待している私を、あなたは笑いますか?


黄昏」様に提出させていただきました。
テーマ「たくさんの言葉を君に贈ろう」で「大嫌いです」
表現方法は自由とのことで、モノローグに組み込ませていただきました。嫌いだと思っていたのに、それをいまさらになって好きだと思い知ってしまう、それを「裏切り」と形容して、タイトルだけは火神視点なつもりだったわけですが、火神が でてこない すみません。

20130322

 

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