みっつめ、きみとぼく
「失礼します」
化学教室には、何人かの先生がいて、その誰もが3年生と話していたけれど、それは私も同じだった。同じというか、これから用事があるというか。
「原澤先生」
お目当ての先生を見つけると、小走りで駆け寄る。先生はすぐに私に気づくと、おや、と声を上げた。
「お疲れ様です。どうでしたか?」
こういうとき、大体話しをしにいくのは担任の先生だと思うのだけれど、私はいつも原澤先生だった。日本のプロバスケットボールチームの代表選手でもあった原澤先生は、ひと一倍プレッシャーに強いし、とにかく頼りになった。なんでだろう、どんなに緊張しても、原澤先生が一度背中をぽんと叩いてくれると、それだけで心は落ち着くものだ。
「8割です。……私にとっては、いい点が取れたと思います。目標に届きます。2次への勉強は、これからですけど……」
「そうですか……それはよかった。ですが、油断してはいけませんよ。……ただ8割なら、もうひとつランクを上げることもできるとは思いますがね」
「それはしません。私、あの大学で学びたいことがあるんです」
原澤先生は微笑むと、「座ってください」と言って、椅子を引いた。ちょこんとお邪魔すると、ついでにすんと鼻を鳴らす。
「先生、昨日キャバクラ行った?」
「ええ、少々飲み過ぎました。なにせ貴方が心配で。ごまかせていませんか?」
「全然です。香水のにおいがするー」
それは失礼、と口では言えど、この人は全然反省していないのだと思う。でもきっと私は、何事にも正直な人だから、原澤先生を信用しているんだ。
「センターリサーチは提出しましたか?」
「もう終わりです。でもあと1時間暇なんです」
「へえ? センター試験が終われど、2次の勉強はこれからだと言ったのは貴方だと思いますが?」
「親の迎えの時間がですね。お財布を忘れて来ましてね。帰れなくてですね」
あははーと軽く笑うと、先生は表情を強張らせた。今は1分1秒でも貴重な勉強時間だ。学校に無意味にとどまらせておきたくなかったのだろう。自業自得、アイアム。センターの結果を忘れないように忘れないようにと必死で、財布は今頃私の机の上で泣いているだろう。ちなみに私はいつも行きは仕事ついでに親に送ってもらっているので、定期などもないのだ。
「……それは問題ですね。どうせ私も2時間以内に昼食を買いに出かけようと思っていましたから、送ります」
「えっ」
先生は早い。サッと鍵を取り出し、コートを取る。貴方も早く帰る用意をしなさいと急かす。えっ。今座ったばかりなのに!
「ああ、以前バスケ部の生徒も何人か送ったことがありますから、貴方を特別扱いしようってことではありません。しかも彼らと違い、出かけるついでですしね」
「そ、そんなことはわかってます! わかりました! さっさと用意してきます!」
そして私が校門で先生と待ち合わせをするまで3分。他の先生に叱られていないだろうか、誰かに捕まっていないだろうか、そんな私の不安は置いておいて、先生は早かった。
「お待たせしました。行きましょう」
センターの翌日、おまけに他の学年は授業中なこともあって、ほとんど誰にも見つかることなく私は先生の車に乗せられる。……なんだかどきどきするな。
「化学の点数はどうでした?」
「あ、そう! 聞いてくださいよ先生! 私化学たぶん満点です。やりました」
「おや。完全勝利ですね。……ということは」
「あー……ちょっと社会の方が……ゲフン」
「そうですか……惜しかったですね。しかし、2次の最低ラインにはおそらく届いているので受験資格は得られる……、そして貴方は2次には社会系は一切不要でしたよね?」
「はい。なのでヨユーです。自信持って、でも油断せずに頑張ります!」
横で運転をする先生は、「それはよかった」と嬉しそうだ。
なんだかこんなに狭い車内でふたりきりだと緊張してしまう。心臓が、こう、どきどきと。
「そういえば、今更ですが、1時間学校で勉強するつもりだったのですか」
「最初はそのつもりだったんですけど、ちょっと覗いてみたら図書館も自習室も人だらけで、教室は居残り禁止で……だから助かりました。本当にありがとうございます」
「お礼を言われるようなことは何も。他にも同じ状況の生徒がいれば、手助けをします。……今回は少し急ぎすぎたかもしれませんが。私も焦っていたのかもしれません」
「原澤先生でも、焦ることってあるんですね」
「ありますよ。試合のときは特にね。ウインターカップなんて、手に汗を握るしかありませんでした」
意外、と小さく笑う。
「どうぞ勉強していてください。それとも車酔いをする方ですか?」
「酔いはしません。……だけど、家につくまでは、先生とゆっくりした時間を過ごしたいな、なんて」
「おやおや、ませたことを」
「ま、ませてなんかいませんよ」
年齢相応、年齢相応。自分に言い聞かせるけれど、先生の前だと、私はどうにも子供のままであることを実感してしまうのは、悲しいことだ。大人になりたい、大人になりたい、って。そう思っているうちはまだまだ子供なのだろう。
「おかしいな。私、高校に入学したばかりのころは、早く大学生になりたかったんです。……ずっと憧れだったから。あの大学の教授。すごい研究をされているんです。細菌のね」
「女の子が細菌というのも、珍しい趣味だと思いましたよ。出会ったばかりのころは」
「そうですか? ふふ……。でもね先生、今は、卒業するのが嫌だなって、ちょっとだけ思ってます。やりたいことだけやってきたから、友達なんていなかったけど……」
窓の外を見つめている。雪がちらついて、傘を持って歩く人が、ひとり、ふたり。一体何人が、昨日までの私のライバルだったんだろう。
「この学校には、原澤先生がいたから……私、ここに来てよかったなって思ってます。先生と離れたくないな。ねえ先生、私と一緒に大学に来ませんか?」
「困りました。私は高校教諭であって、バスケ部の監督であって、大学に招かれた覚えはないんですが」
「寂しくなっちゃって。センチメンタル?」
窓の向こうの景色が先生の表情を隠すから、私はきゅっと鞄を抱きしめた。
私は頑張った。頑張ったんだ。でもまだ終わりじゃない。終わりじゃないから、戦わなければいけないのだ。受験なんて戦争だ。そのなかで、先生の存在だけが私の支えだった。
「24時間、365日、いつだって先生と一緒にいられたらいいのに。そしたら私、何もいらないな……なんて」
信号で車が止まる。先生は何も言わなかった。言えないのだろう。こんな告白まがいのことを、それも生徒に言われてしまっては。しょうがない。私の気持ちはきっと最初からバレバレだった。私のやりたいことを、まっすぐ応援してくれた優しい先生。きっとこの人の応援は、教師の義務だからとか、そんなことじゃない。
いつだって生徒と一緒に心から戦ってくれる、先生だった。
車が動き出した。私の家は、もうふたつ、角を曲がった先。どうして迷わないのだろうと思って、いつだったか、近所で先生と会ったことを思い出した。私の家、あそこのマンションなんです。きっと先生は、それを覚えていたのだ。
「着きましたよ」
「ありがとうございます」
シートベルトを外して、息を殺して──、
「ミョウジさん」
「え?」
ガタ、と車内が一瞬揺れた気がした。先生が近づく。
え? え? と戸惑う私は、思わず目をつぶった。
先生のあたたかな手が私の首の裏を支える。背中で、ぽん、と、柔らかな音がした。
「頑張れ」
なんでだろう。どんなに緊張しても、原澤先生が一度背中をぽんと叩いてくれると、それだけで心は落ち着くものだ。
「はい」
私は、息を止めたまま、しっかりと答えた。
20160117
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