アモール=モール
「ひとつ思うんだけどさ」
わたしは目の前で着替えている男にそう問いかけた。
「は?」
夕闇が食い込んでくる部室、もう主将を後輩に譲るのだと言った彼は、わたしを振り返ると、低い声で短く吠えた。
「あんたよく、灰色の頭したやつ追っかけてたじゃん」
「灰色の頭したやつ……? ああ、灰崎のことか。それがどうかしたのか?」
気づかないふりをしている。
水色のシャツのボタンを留めて、ネクタイを締める。その仕草に隙はない。
虹村修造。わたしが恋愛感情を向ける男だ。
「よかったの?」
「……なにがだよ」
「もういいのかって聞いてる」
わたしはボードをベンチに置いた。カタン、プラスティックが鉄にぶつかる音は、あまりにも軽い。シャーペンは転がって床に落ちた。芯が折れていなければ良いのだが、まあ詰まりさえしなければそれでいい。
「いいんだよ。あいつはバスケをやめるだろ。おれがどうこう言えるような問題じゃねぇし。バスケ部でないなら、関わる理由もねぇ。なくなる」
「あんたってつくづく、冷たい男だなって思うよ。あんなにボコボコにしてたくせに」
「…………」
いつだったか、遅刻したそいつを、虹村が殴ったことがある。
聞いたときは、あせる皆をよそにして、ひとり大爆笑したものだった。灰崎に向けて、怖じずにまっすぐぶつかるところが、いかにも彼らしくて、笑ったのだ。いやいや笑い事じゃないでしょと言われても、ひとり爆笑しつづけた。虹村本人から怒られるまで。
「いやあ、あんたはつくづく良い主将だったとおもうよ」
「あっそ」
「はは、うん。かっけぇってね。いっつも思ってたわよ。あんたのこと。ホントあんたかっけぇわ。でもいまはどうだろう。かっけぇのかしら」
虹村がロッカーを締める。金属の音。ギィ、錆び付いている。
「ミョウジのことは、ずっとよくわかんないままだったよ」
「あら、そうなの?」
「だってマトモじゃねぇし、おまえ」
「わたしにそんなこというのあんたくらいじゃないのー?」
「馬鹿言え。灰崎も言ってた」
「なぜそこで彼が出てくるのかね」
自分が主将をやめることを、未だ乱闘騒ぎを起こしつづけている彼は知らないだろう。虹村の顔にはそう書いてあった。だからなまえを出したのかもしれない。
わたしがじいと彼を見上げていると、彼は情けなく笑った。
「決めてたことだった。それでもやっぱ、なんか、虚しいよな」
虹村の手がわたしのそれをつかみ、引き寄せる。強引に立たされたかと思えば、虹村はわたしの背をロッカーに当てて、覆い被さってきた。身長差があるなかでもよくやるものだ。
「虚しい?」
「虚しい。すっげえ、虚しい。どうしたらいいのかわかんねぇんだ。父親のことも、バスケのことも、なにもかもがぐるぐる頭んなかでまわってやがる。嫌にもなるぜ」
後輩たちが、輝きをなくしていくのだと、虹村は言った。
最後の全中がやってくる。
虹村にとって、わたしにとって、最後の。
その夏は目の前なのに、──どうしようもなく苦しいのだと。
「虹村は甘えん坊さんですねぇ」
「うるせぇ。黙ってこうされてろ」
わたしの腰を引き寄せ、虹村はもう片手で身体を持ち上げた。首に腕を回してやると、満足げに笑われる。
「こっちのほうが楽だな」
「首が?」
「なんでも」
「わたしはこの足が浮いてる感覚って怖いわよ」
「落とさねぇから」
夕闇が濃くなっていく。電気をつけていない部屋は、ますます真っ暗になった。じり、と虹村は隅に隠れ、それと同時に部室のドアが開く。だが数秒のちに、ぱたんと閉められた。
「誰だった?」
「さあな。ただの見回りだろ。もうすぐ最終下校時刻だ」
からっぽになっていく学校、わたしたちに残された時間。
教室よりもわたしたちが残っている部屋。
「終わっていくんだなあって、おもうよ」
虹村が、また「は?」と尋ねた。
「一緒だった時間が。終わっていくんだなあって、思った。苦しかったんだよね、単純に。高校はどうなるんだろう。──ねえ、虹村。あんた、バスケ楽しかった?」
わたしから見た彼を挟まずに尋ねる。3年を捧げた。あのボールに、ゴールに、コートに。帝光というなまえに。
「……ああ、楽しかった」
「やめたくないとおもう?」
息を飲む音は間近で聞こえる。きっと肯定したいのだろう。引退したくない。けれど、肯定してはいけない理由が彼にはあることを、わたしは知っている。
「……変なこと聞いてごめん」
「ミョウジ」
遮るように虹村は言った。黒髪が、ぼんやりと夕闇に重なって、彼の眼光だけがゆるりと映る。
「俺はおまえが好きだったよ。なんだかんだいっても、いつも俺を見ているおまえが好きだった」
「……過去形なんだね」
「おまえもだろう?」
赤司と出会うまえに、互いに好き≠告げていたら、ひょっとすればわたしたちは、ここで抱き合う以外の行為ができたのかもしれない。キスをしたり、それ以上をしたりで、隙間を埋めようと躍起になっていたかもしれない。
けれどもう、終わりだった。
手の届かない天才≠ノ触れてしまった右手は、焼け焦げて、炭になってぼろぼろと壊れるばかりだった。
「質問を変えよう。ねえ虹村、あんた、バスケ好きだった?」
表情を覗き込む。
最終下校時刻を告げるチャイムが遠くで聞こえる。
「好きだった≠諱v
透明をこぼしたひとみはやがて、彼が蓋をすることによって、微かな光を閉ざす。
アモール:恋
モール:死
20130906
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