勉強の日々
あの体育祭から数週間、布団から出るのが億劫になってきた11月。
私はぼーっとすることが多くなった気がする。端から見たらいつもと同じ無表情だろうが、無表情でも考え事は出来る。最近はそれもせず、ただ意識を宙に浮かべぼんやりとしている。
「…………」
原因はもちろん沖田先輩。彼は本当に何がしたいかわからない。あれ以来、彼は私によく絡むようになった。用もない筈なのに生徒会室に訪れ茶を飲み、小さな爆弾を落として帰る。
そして今日も、
「おはよ、楓ちゃん」
彼はテロリストの如くやって来た。
「おはようございます、沖田先輩。もう昼ですが」
形式上の挨拶を交わし、沖田先輩を一瞥。鞄を持っている辺りから先程来たんだろう。ちなみに今は昼休み。
「原稿用紙を貰いに来たよ」
遅刻は3枚。彼の前に差し出すが、沖田先輩は動かない。私の机の前のソファーに座り、机に上半身を乗り出して私をじっと見ている。
「…………」
「…………」
ここで沈黙に耐えられず話した方が負け。といっても私は元々口数は少ないし、沖田先輩は沖田先輩でなんだかんだ話さない。いつもは同席した不知火さんの言葉でうやむやに終わるが、今日はこの空間に二人きり。
「…………」
「…………」
この冷戦は長い。
やがて口を開いたのは、沖田先輩の方だった。
「覚えてる?」
「何をですか」
唐突な質問。訳がわからない。
「僕の唇の感触」
彼は自分の唇を人差し指でさし、にこにこと笑う。思い出すのは全身を駆け巡る不快感。私は沖田先輩を睨んだ。
「柔らかかったです」
ここで変に動揺したりしたら沖田先輩の思う壷だ。私は平然と言いのけてやった。
「…なんだ、もっと動揺すると思ったのに」
「…………」
そりゃあされたときは動揺した。何が起きたかわからなかったし。でも所詮はキス。私のファーストは生まれた時に父親だと聞いていたし、母は母で昔“キスはただ唇を合わせてるだけよ”と言い切っていたので、私はあれをただの事故として処理していた。
「つまんないなー。あ、そうだ。じゃあアレは?」
沖田先輩はにっこにっこと私を見る。
「…体育祭の終盤の生徒全員によるフォークダンスで共に踊り、キスした男女は将来を約束される…」
「…………」
「僕達、当て嵌まるね」
薄桜学園に代々伝わる噂。でもそんな伝承になんの意味があるのだろうか。
「…当て嵌まるから何なんですか?」
噂は噂。本人達にその気がないのだから関係ない。
「沖田先輩は千鶴ちゃんが好きですし、私にだって好きな人が居ます。そんな伝承に意味はありませんよ」
「……ふーん。まあいいか」
私の答えが不満なのか何なのか、彼は興味が失せた様にそう言って生徒会室から出た。
「はあ…」
ひっそりとため息をつく。
何を考えているのか全くもってわからない。疲れる。これがいわゆるストレスではないだろうか?心の健康が損なわれている、気がする。
だからだと思う。
いや、その性だと思いたい。
次の日、放課後。
「…………」
なんだこの点数は。
私の手の中にあるのは今日返された小テスト達。学期末も近いということで先生達がこぞってやりだした小テストだ。
その小テストの、私の名前の隣に赤ペンでかかれた数字…。おかしい。このテストは50点満点で、10点満点ではない筈だ。
私は現在、女子の学年一位。でもそれは、元々この学校が私の頭よりレベルが下だったのと、毎日予習と復習を欠かさなかったから貰えた栄誉だ。私の頭が良いわけでは決してない。
もう一度言おう。
この小テストは、学期末も近いということで先生達がこぞってやりだしたモノだ。
つまり
このテストで点数が著しく悪いということは、それはそのまま期末テストに反映される可能があるということだ。
…それは避けたい。なんとしても避けたい。
別に先生達や生徒会に“頭良く居ろ”とは言われていないが、これは私の意地だ。副会長という役職に就いている以上、無様な成績は格好が悪い…と思う。
…まあ会長も天霧さんも不知火さんもテスト自体受けてないが。
ならば仕方がない。最終手段を使うしかない。学生の本分は勉強だし。
という訳で、
「少しお暇を頂きます」
「…お、おぅ」
一人生徒会室に居た不知火さんにそういって、私はその場をあとにした。
今更説明なんて必要ないと思うが、生徒会の仕事は全て私がこなしてる。別にそれが苦ではないが、雑務に追われる私は朝から放課後まで生徒会室に入り浸り状態。…まあ冷暖房完備にふかふかなソファという快適な空間だからというのも勿論あるが。
ちなみにこうなった原因である沖田先輩との接触は主に生徒会室だ。ならば、
生徒会室に居なければ彼との接触は避けられる、ということになる。
私の処理能力と私の抜けた生徒会に溜まる仕事量を比較して、割り出した休暇は約3日。
それ以上休めば生徒会の仕事はてんてこ舞いになってしまうし、第一、長い間も会長の顔が見られないなんて私が堪えられない。
だがしかし。
学力向上と私の心の健康の為、この3日で頭と気持ちを全て切り替えてみせる。
思えば生徒会室より快適な場所はこの学校にはなかった。会長の私物化、というのが1番の原因だろう。
でも冷暖房完備、という点ならこの図書室もなかなか快適だ。図書委員以外に人が居ないし、尚且つ資料が豊富で勉強には持って来いな場所だった。飲食厳禁だが、まあ食事はしないし問題ではない。
あれから3日目の今日。
朝から放課後まで、私は図書室に入り浸り状態だった。朝は全ての教室の鍵を全て開ける仕事があるから一番乗りしなければならないし、放課後は全て教室の戸締まりをしなければならないから一番最後に帰らなければならない。…ちなみにこの二つの仕事、私以外の生徒会メンバーは知らない。なんでも土方先生が、頼んでもやりそうにないメンバーだから頼まなかったそうで、私が入ってからしばらくして、新たにこの仕事が追加となった。正直、いい迷惑。
生徒会の書類仕事は放り出せても、こういった仕事は放り出せない。私の性で生徒会の評判が落ちることは、なんとしても避けたいし。
「…よし」
先生達に頼み込んで作ってもらったテストの出来が中々良く、そう呟けば誰も居ない図書室に良く響く。
今日は図書委員の子が居ない。サボりか、もしくは体調不良か…どちらにしろ今度の委員会会議で注意をしよう。
さて、この3日で随分と頭がリセットできた気がする。もう沖田先輩を見てもなんともないだろうし、下がった学力も大分元に戻っただろう。
後はこの3日で溜まった生徒会の仕事を片付ければ、また元の日々が戻って来る。
「ふあ…」
気が抜けてしまったのか、欠伸が一つ漏れた。そういえば家でも勉強漬けであまり寝ていない事を思い出す。今日から生徒会の仕事に取り掛かろうと思ったが仕方がない。軽く仮眠を取ろう。
机の上の参考書を片付けて、いざ寝ようと意気込んだその時、眠気は一気に吹き飛んだ。
「…………」
図書室のドアの前に、会長が居らした。
「お、お疲れ様です。会長」
目が合い、何とか声を絞りだすも、出て来た言葉は少しどもってしまった。
どうして図書室へ?という疑問が浮かんだが、そんなことより3日振りの会長が格好良すぎて魅入ってしまう。
会長はやがて辺りを見渡した後、一言。
「茶」
「え」
私が聞き直したことがお気に召さなかったのか、会長の眉間にシワがよる。
「…茶を持って来いと言っている」
「は、はい」
低めの声と鋭い瞳で睨まれれば、本能で身体が自然と動いた。
ここから一番近い給湯室は…いや、生徒会室じゃないと会長の好きな茶葉と湯呑みがない。
私は速足で生徒会室へと向かった。
「失礼します」
ここに入るのに、今まで一度も言ったことがなかったが、会長が居るのだから言わないわけにはいかない。
生徒会室にあったお茶請けと一人分の湯呑みを持って入る。…飲食厳禁だが、今日は図書委員が居ないから良し。係が居ない件は不問にしてあげよう。
「どうぞ」
興味なさそうに参考書をパラパラとして座っている会長の前に、お茶の入った湯呑みとお茶請けを置く。…ちなみにそこはさっきまで私が居た席だ。
「…………」
会長は無言でお茶を飲む。
「…………」
「…………」
静かな空間で、会長はやがて笑った。
え
笑った?
「…ふん。やはり茶は貴様の茶だな。不知火の茶は飲める物ではない」
状況が掴めずほうけている私を尻目に、会長は立ち上がって出口の方へ向かう。
ドアの直前、会長は少し振り返り私を見た。
「いつ戻る」
「明日から戻ります」
少ない言葉から“いつ生徒会に戻るのか”と解釈しそう言えば、どうやらそれは合っていたようで、会長は「そうか」と言って図書室から出て行った。
「はあぁ…」
張り詰めた雰囲気からの解放に伴い、深めの息を吐く。
久しぶりの会長は緊張した。でもあの様子だと、勝手に生徒会を休んだことは怒っていないらしい。勢いで休んでしまったから少し、いや、かなり不安だった。
にしても、自惚れても良いだろうか?
からっぽの湯呑みを見つめれば、先程の状況が浮かんで来る。
あれは、私の煎れたお茶を飲みに来た、と受けとって良いのだろうか?
あの会長が、わざわざ、ここに来て、私の煎れた、お茶を飲む。
「…………」
今更ながら顔が熱くなった。
例えどんな理由でも、必要とされるのは嬉しい訳で。それに会長のあの言葉はきっと褒め言葉だ。
なんだか初めて認められた気がした。
ちなみにこの3日間は、“副会長、ストライキ!”という見出しで新聞部のスクープになっていた。
ストライキの原因は、学力低下の為でも沖田先輩の性とも書かれておらず、ただ“先生達に対する反乱か!?”と書かれてあり、その性かは知らないが、先生達がしばらく私に対して優しくなった。教室の開け閉めの仕事も週一で良いと土方先生に言われたので、なんだか得した気分になった。
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