「――なあ、二人とも。そこまでにしねえか」

 現実逃避もほどほどに、紅茶を置かれたテーブルに合わせられた椅子へ腰かけたサッチが口を開く。止まらなければ紅茶を飲みながら静観していよう。と、持ち上げたカップのやや冷めてしまった液体が映した自分の姿に僅かに瞠目し、サッチはきょろきょろと辺りを見回した。

「ああ、鏡。ちょっと待ってて」

 言うや否や、カウンターの向こうでひょっこりと姿を消したステンシアにジンベエはため息を吐き透明なオレンジ色に視線を落とす。
 ――前回からそう月日は経っていないはずなのだが、ジンベエには「茶葉を貰ったから暫くはこれを淹れようかな」と、一部に水色の入った柔らかな黒髪を結い直した彼がそう言っていたような記憶があった。その際に見た液体の色はオレンジではなく彩度の高い赤で、口を突いて出た言葉は「随分と毒々しい色をしとるな」だったような気がするし、彼はそれに複雑そうな顔をしていたように思う。

 その時の茶葉の名前は憶えていないが、ばたふらいぴー≠セとかまろうぶるーてぃー≠セとか、言われたところでどんなものか分からないし、何のことだ? とさえなる自分に、ステンシアは何が楽しいのかにこにこと話していたことは覚えている。

 ふわふわと笑う彼に「わしにはよく分からんことだ」とジンベエが素直に呟けば、彼も別段詳しくなかったようで、「そんなようなことを言っていたような気がする」そう返されたことだって、思い出すことは容易であった。そんな他愛ないことが思い出せたところで、それ以外の内容は全く思い出せないのだから聞き流していたと言われてしまっても仕方ないけれど、ジンベエは何となく赤色の茶葉の行方が気になってしまった。

「ステンシアくん」

 呼びかけた途端に聞こえたゴツンという鈍い音と小さな呻き声にテーブルを揺らせば、相席していたサッチの肩もびくりと揺れる。サッチへの謝罪とステンシアの安否確認のどちらを優先するか考えあぐねたジンベエは結局口を閉ざしてしまった。

「いったたたた……」

 よほど勢いが良かったのか後頭部を撫でながら二人の座るテーブルへ歩み寄ったステンシアはサッチの顔の高さに合わせ、細かい銀装飾の施されたスタンドミラーを掲げる。別に机の上に置いてくれても構わないというか、むしろそうしてくれた方が良いような気もしたのだが、気にしないことにしてアイデンティティを消失させる決断をした。

「やっぱりおろすんじゃないか」
「修正不可だとは思わなかったんだよ」
「その髪型も似合ってるよ」
「そりゃあ、おれはどんな髪型でも似合う男だからな」

 わさわさと髪を整えながらサッチが自信満々に言い放つ。ステンシアは小さく笑い僅かに首を傾げた。誰かに呼ばれたような気がしたのだが、気のせいだっただろうか。何とはなしにジンベエを振り向き、呼んだ? と問いかければ、数秒の沈黙の後、ああ。と頷いた彼は紅茶を啜った。

「前に呑んだのは何と言うとったかと思うてな」

 カップに視線を落としたジンベエはオレンジ色をくるくると回すように揺らす。

「……ジンベエさんの口に合わなかったやつ?」
「あ、ああ、そうだったかの」
「なんだったかな。覚えてないや」

 ジンベエの後に来たお客さんが気に入ったみたいだったからあげちゃったんだよね。あっけらかんとそう口にしたステンシアはサッチへ視線を戻し、角度を変えながら自らの姿を映す茶髪のコック服から鏡を奪い去った。

 おお、助かった。まあ崩したのはお前だけどな。サッチは礼を言うと徐に癖の強い黒髪へ手を伸ばす。

 空気を含んだように膨らむ黒髪は、やはり綿飴のように柔らかいのだろうか。緩く結ばれているはずなのに、結い紐の見えない結び目は何で保っているのだろうか。そんな、取るに足りない好奇心からの行動であった。

 わしゃりと指を差し入れれば、水色の瞳が不思議そうにサッチを映し「なあに?」訊ねたステンシアへ何でもないと手を引っ込める。どこからとは言わないが殺気を感じた。

「ああ、そうだ。これから天気が荒れそうだけど、お仲間さんは大丈夫?」
「あー……幾ら悪天候でもあいつらが吹き飛ばされるようなことはねえし大丈夫だろ」

 放たれた殺気に気付いているのかいないのか、思い出したように問いかけたステンシアに多少考えてはみるものの、大雨で取り乱すような者や強風で吹き飛ばされるような者は思い当たらずサッチは安易に頷く。悪天候と言えど水の都ウォーターセブンのような自然災害が起こる島だとは聞いていないし、もしそうだとしたらハルタやナースは吹き飛ばされてしまうかも知れないが、誰かしらが近くにいるだろう。そもそも全員が船から離れることなんて船の修理を除いてないのだから、何かあれば船に連絡すればいいだけの話である。

 ガタガタと戸が揺れる音をBGMにサッチは紅茶を飲み干した。

「……! 誰か来る。ジンベエさん、受け止めて」

 言うとともに近くのテーブルへハンドミラーを乱雑に置き、出入り口へ駆け寄ったステンシアがドアノブに手を掛け――

「はびゃっ」

 悲鳴を上げた扉と勢い良く飛び込んできた何か≠ノ巻き込まれるようにカウンター近くまで弾き返された。
移動している最中だったジンベエは唖然として固まっているし、扉とやけに大きい青色の鳥の下敷きになったステンシアはうつ伏せで倒れ、店内に吹き込んだ暴風雨は破壊音を響かせていく。

 見覚えのある鳥の姿にサッチは現実から目を逸らしつつジンベエの前を通り過ぎた。


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