十七年。
 それは人間国宝という肩書きを付与された菓子職人――ステンシアが聖地マリージョアに滞在していた期間である。

 その滞在期間中に彼が作り上げたお菓子≠ニ総称されるものは多種多様なケーキから始まり、マカロン、ダックワーズといったメレンゲ菓子、クッキー、タルト、パイ、フロランタン、マフィン、フィナンシェ、シュークリームにプリン、ムース、饅頭など、細かく上げ出せばきりがないほど多岐にわたる。
 けれど、息を吐く暇もなく調理に勤しんでいたわけではないし、作れと提案されたものを蹴ることが少なかったとも言い切れない。

 ステンシアは他人の期待に応えようとする人間ではあるが、こと、自分の土俵となれば自分の気分を最優先にする男でもあった。
 どうしようもなく扱いづらい彼がそれでも邪険にされることなく自由にのびのびと聖地マリージョアで生活できていたのは、小さな記事だったとはいえ見出しに天才的芸術家・・・≠ニ取り上げられるに足る技量、その中でも飛び抜けた魅せる力があったからだろう。
 それはまず初めに見栄えを気にする天竜人には特に好評で、食べるためのものではなく、見るためだけのものとして高い人気を誇っていた。

 しかしステンシアにとってそれはあまり嬉しいことではない。
 観賞用として持て囃され、何かあれば壊れた玩具と同じように廃棄≠ウれていくということは、それを作るために使われた材料全てが無駄になるということに他ならないからだ。

 最終的に美味しく消費してほしいから作るはずの食品であるはずなのに、聖地マリージョアという場所では見栄えが全てで、作り上げた食品たちは須らく廃棄処分されてしまう。
 見た目の感想は、注文は、腐るほど得られるというのに、誰も美味しいとは言わないし、そもそも口に運んでもらうことさえ叶わなかった。

 漠然と虚しいという感情を覚えたステンシアは考える。

 誰なら口にしてくれるだろうか。味の感想は、この際どうでもいい。高いものを用意するくせに、彼らは一切口にはしないのだ。どうせ高価なものを使うのならば、せめて誰かの胃袋に収めてほしい。

 そんなときに出会ったフィッシャー・タイガーという魚人は、ステンシアにとって救いだった。

「怪我をしている。手当をするから動かないで」

 苦痛と恐怖を吐き出し続ける彼らの目には、好奇心が人の形を借りて実体化したような世界貴族はどう映り、同じ言語を使う人を目の前にして、それでも彼らを道具のように消費する世界貴族という人間は、何を基盤にその価値観を構築していったのだろうか。

 ふつふつと湧いた疑問が、与えられた住処から外に出ようと思ったきっかけだった。

 いつか殺してやる。死にたくない。帰りたい。疲れた。死んでしまいたい。
 鬱蒼とした感情が蔓延していた。
 嘲笑と怒声が響く。
 好奇心に飼われる人々は、暗く淀んだ力のない瞳を伏せる。
 銃声。鮮血。
 今まで動いていた命が、突然、モノになり果てる。

 聖地マリージョア。そこは好奇心が人を飼い、好奇心が人を殺す土地だった。

 目を閉じて、つい先ほどまでこの世に存在していたモノを片付ける人々は、それでも好奇心を人間≠ニ認識している。ステンシアにはそれが不思議だった。

 ――いつか殺してやる、そのいつかは今ではなくて。

「ごめんね」

 悲鳴を上げる心を押さえつける男の赤い腕に包帯を巻きつけた。

 謝罪は、何に向けたものだっただろう。自分がこの男に謝ったところで、変わることなど、変えられることなどないということなど、分かり切っていたのに。
 そこでようやく視界が滲んでいることに気がついて、ああ、知らぬ間に泣いていたのだと、悲しむという感情は機能していたのだとステンシアは幾許か安心した。
 男の黒く淀んだ感情は際限なく渦を巻いて、けれど、諦めたようには見えない。

「今を変える意思は、ありますか」

 短く、彼は空気を震わせた。
 聞き返したのでは、ないかも知れない。

「私には、今苦しむ人々を救うことができません」

 ステンシアは構わず続けた。
 白い布がようやく生々しい全ての傷跡を覆い隠せたことを確認し、男を見上げる。

「あなたが望むのなら、私はそれに手を貸します」

 男の目は、今を生きる人々を救いたいと叫んでいた。きつく唇を引き結んだ彼はしかし、首を縦には振らない。

 せめぎ合う葛藤に、ステンシアは僅かに唇を噛んだ。
 天竜人と呼ばれる好奇心は人間であり、自分もまた、人間である。
 同じ人である以上、種族や肩書き、見た目の違いなど気にする必要はないはずなのに、男が拒否した理由は紛れもなく人間を忌避したからだった。

 あれらは人間ではないけれど、彼らはあれすら人間と分類するのだから、今は多数のそれに従うほかあるまい。ステンシアは舗装された床板を眺めながら男の横を通り過ぎる。

 目を閉じて、直後に聞こえた舌打ちは聞こえなかったことにして。

 ――彼を飼うのはどこに蔓延る好奇心だっただろうか。
 同じ服に同じ体系、同じ顔を幾つか思い並べ、男女の見分け以外できないことに気がついたステンシアが舌を打ったのと、誰が施したのかが明確な白い包帯を認識したタイガーの飼い主が怒鳴ったのは、奇しくも同じ瞬間だった。


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