気楽なガープとは裏腹にステンシアの心境は複雑で、一体何と呼ばれる感情が渦巻いているのかという判別さえつきそうになかった。けれど、恐らくこの感情こそが同情と呼ばれるものなのだろう。発言からあまりにも早く護送用の軍艦が用意できたと知らせを受けたステンシアは英雄指揮下の大きな船へ足を踏み入れた。

 海と空の青に境界線はない。なれば、善と悪の境界線は。

 ――きっと彼は限界だったのだ。

 彼が生きるには、この世界は残酷だったのかも知れない。けれど奴隷という過去も、多くの奴隷を救った奴隷解放の英雄≠フ死に方も、それを知るのが何処まで本当のことなのか分からない紙切れの情報だったことも、運命だったのだろう。
 どうしようもない、たらればの話ではあるが、もしあの日、あの時、海軍に出会わなければ、もっと別な方法を思いついていれば、彼の最期に立ち会えたかも知れないし、彼を救うことが出来たかも知れない。――尤も、あの選択は間違っているとは思っていないし、幾ら考えようとほかの選択肢など出てこないけれど。

 彼は死んでしまった。悲鳴を上げ続ける心に蓋をして、必死に人間を愛そうとした元奴隷、フィッシャー・タイガーはこの世界から排斥されてしまった。それは何をしても変えられない事実であり、彼の行動はこの世界に構成された善悪基準によれば悪≠ノ振り分けられるものだったということである。

 インペルダウンへと投獄された魚人の男と入れ違いになるように海軍本部を後にしたステンシアはぼんやりとそんなことを考えていた。

「どちらへ向かえばよろしいでしょうか、ステンシア様」
「……ああ、うん。そうだね、どこにしようか」

 海兵の話の大半を聞き流していたステンシアは太陽の光を反射しきらりと輝く海を眺め、適当に受け答える。これから先、どこに行こうか。食料の心配は必要はないだろうが、あまり遠くまで付き合わせる気はない。

 ステンシアはため息を吐き、タイヨウの海賊団の船員から聞いた話を思い返した。

 彼らは人間にとって当たり前に存在する太陽の下で生きることに憧れを抱いたのだという。強くて優しい彼らは何故、深く暗い海底でしか生きられないのだろう。
 ステンシアとしては奴隷制度も奴隷解放も間違いではない。その中で奴隷解放が悪となるのは、人を殺してはいけない理由の一つとして上がる人を殺してはいけないという決まりがあるから≠ニいうそれと同じものだ。
 フィッシャー・タイガーの行った奴隷解放は聖地マリージョアに暮らす権力者の襲撃事件であり、権力者が生きやすいように作られている世界で権力者に手を上げたというのはつまり世界の決まりに触れたということ。そしてそれは悪と分類されて排斥されざるを得なかっただけなのである。

 ステンシア個人からしてみれば、魚人島の英雄フィッシャー・タイガーはやはり悪ではないし十年は昔に処刑された海賊王ロジャーせんちょうも悪とはならないが――そもそも悪という概念自体が希薄な男に、一度なりとも乗船したことのある船の船長を悪と認識しろという方が難しい話であり、どちらも大罪人としてその身を終わらせたのならば、世界にとって彼らが悪≠セったというだけの話だった。

 その最期がどうであれ、生き方がどうであれ、例え世界中が彼らを悪と言おうがただ一人ぶれることなく正しいと言い切るのがステンシアである。

「そうだ、海兵さん」
「はい! 何でしょうか」
「七武海に魚人を入れてみるのはどうだろう」
「魚人……ああ、タイヨウの海賊団ですか?」
「そう。彼がもしその話に乗るようだったら、ついでに護衛係も頼んでおいて」

 思い出したように声を上げたステンシアはにこりと微笑んだ。
 天竜人から寵愛を受ける人間国宝の護送≠ニいう失敗の許されない任務に駆り出された海兵は突拍子もない話に瞠目し、どうにか考えを改めさせようと言葉を手繰り寄せる。

 そもそも護衛は海賊ではなく海兵が担うべき役目だ。何かの不手際で怪我を負うことや命を落とす可能性もあるというのに、責任を取れるはずのない、取る気すらさらさらないだろう賊に任せるなど正気の沙汰ではない。

魚人海賊団かれらは人間嫌いで気性の荒い集団ですよ!? 護衛どころか貴方の命が――」
「わっはっは! 何を言ってもその男は聞かんわい。頑固なんじゃ」
「……ガープ! ああ、そうだね。あなたと張れるくらいには、頑固かも知れない」

 小さく笑いながら返された言葉を気に留める様子なくガープはおかきをぼりぼりと貪った。

「……それでもまあ、見知った人がいなくなっていくのは、寂しいと思うよ」

 ステンシアが放った台詞に聞き手はおらず――つまりは彼の独り言とされるそれにガープは三分の一ほどの大きさになったおかきを一息に口内へ放り込む。
 彼へ声を投げたのはガープで、しかしそれは将校にもならない海兵の耳に入るはずもない手段で伝えられたものだった。

「ねえガープ? 確かきみのお孫さん、東の海イーストブルーにいるんだったよね」
「なんじゃ、わしの孫に会いたいか?」
「いや? そんなつもりはないけれど。ああでも、うん」

 東の海にしようか。あまり興味がない、という風に小さく呟かれた音を聞き取った海兵はびしりと敬礼し「承知いたしました!」波音にかき消されない声量ではっきりと言を紡いだ。

 踵を返した海兵にひらりと手を振ったステンシアはガープの持つ袋から一枚おかきを拝借し、海風を受けて広がるカモメのマークがあしらわれた帆にかざす。
 彼のことだから、いつもの如く大して意味のない行動だろうと自身の持ってきた袋に片手を入れ、袋が空になっていることに気がついたガープは新しい袋を開封した。

「……好きだねえ、本当に」
「そのおかきはうまいぞ。なんせセンゴクが取り寄せた限定物じゃからの!」

 さらりとセンゴクから窃盗してきたものだと白状したガープは豪快に笑い、先程開封した煎餅を口内へ放り込む。
 そういえばガープは煎餅でおかきはセンゴクだったような気もする。漠然と思い返してかりりと一口。ふわりと鼻腔を抜ける磯の香りに思い馳せるはただ一人。

 あの男はきっと愛するリュウグウ王国のため、国に帰りたい元奴隷の仲間たちのためと七武海入りを決めるだろう。誰かのために動く強くて優しい魚人の彼に、愛しい国を離れさせてしまう理由を作るのは心苦しいけれど、守ってもらうなら、近くに置く人を選べるのなら。

「(私は、あなたといる未来を選びたい)」

 空と海も、善と悪も。その境界線は曖昧だ。
 曖昧なこの世界で、ステンシアはジンベエを善だと願いたい。


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