人のよさそうな顔をしていても、替えの利く奴隷の上で裕福な暮らしをしていることに変わりはない。頑なな魚人を相手に穏やかな笑顔を崩さない人間――ステンシアは足繁く彼の元へ向かい、ついに言葉を交わすことのできる関係へと進展した。

 けれどそれは信頼関係が築けたというにはあまりにも浅く、短い時間だった。

 不安定でいまいち信用に欠ける間柄と分かっていながら、いつもと変わらぬ表情で、声音で「いっそ、逃げてみようとは思わないの?」と。「きみ一人なら、逃がしてあげられるかも知れないよ」そう口にしたステンシアにフィッシャー・タイガーは逃亡を選択した。それは冗談としか思えない提案で、断言していたわけでもないけれど、彼が言うならば可能かもしれない、否、可能であると判断したのである。

 結果、見事に逃亡を成功させたタイガーは奴隷解放――つまり聖地マリージョアの襲撃という世界の禁止事項タブーを犯す決断を下し、ネプチューン王家がその意思を止めることはできなかった。

 捕らわれた多くの同胞たちは勿論、人にあらぬ扱いを受ける奴隷などという生き地獄から、全ての人々を解放する。タイガーは微笑みを浮かべる一人の男を思い返し、あの場所にいるには優しすぎる彼も連れ出したいと、あの場から逃げ出したいと思っていてほしいと願っていた。



 その身一つで崖を登って、虐げられるものを解放して、逃亡する元奴隷たちの流れに逆らって、突然で異例の事態に騒ぐマリージョアで、業火の中に、喧騒の中に、一人の男の姿を見つけることは叶わず、名残惜しくもタイガーはその地を後にした。

 元奴隷の魚人たちにタイガーを慕って集まった同胞を加え、魚人たちで構成されたタイヨウの海賊団を結成し、一人の男を捜しながら海を進んだ。海軍の追手を振り払い、度が過ぎる船員を叱責し、誰一人殺さない最後の一線を踏み越えさせないようにと心がける。

 逃亡から奴隷解放まで一年を要し、幾分かおぼろげになってしまった姿を捜して二年。

 ようやく見つけたその人を、半ば強引に同船させた。タイガーはこの選択を間違っていたとは思っていないし、人間を乗船させることによって起こるだろう事態を予測していなかったわけでもない。

 彼ならば、それも受け入れて愛すだろうと思っていただけで。事実、ステンシアはアーロンを否定しなかったし、タイガーの読みは間違っていなかったことになる。

「あいつはな、この世界ごとおれたちを愛しているんだ。――お前が謝りたいと思うなら、そうしたらいい。これでおれの話は終わりだ」

 促されるまま退室したアーロンの心境は複雑だった。
 彼が、ステンシアという人間が何であるかは置いておき、殴られると分かりきった直前で、受け身を取れるほどの身体能力もないひ弱な身で、微笑むような輩など今まで見たことも聞いたこともない。正直気持ち悪いとさえ言える奇行だった。けれど一体何を考えていたのか気になるところでもある。

 自然と足が向かっていた医務室の扉を開き、意識を取り戻していたらしいステンシアと目が合った。

「難しい顔をしているね。大丈夫?」

 大丈夫じゃないのはテメエの感性だ。咄嗟に口にしそうになった言葉を呑み込みアーロンはステンシアから目を逸らす。男の代わりに視界を埋めたのは白、白、白。医務室であることを考えれば当たり前だが、怪我や体調不良などといったものとは程遠いアーロンには新鮮な景色であった。

「何の用だ、アーロン」

 じっとりとした瞳がアーロンを捉え、見え透いた警戒を音にしたような声色で問いかける。

「そう邪険にしなくたっていいじゃねえかアラディンのアニィ」
「そうだよ、怪我したわけでもないんだし」
「怪我をしてないやつがどうしてここにいるんだ」
「……それは、まあ。成り行き?」

 人差し指を口元に当て、わざとらしく首を傾げるステンシアに船医――アラディンはため息を吐いた。

 ステンシアはかすり傷だと笑うのだろうが、僅かでも流血沙汰だったことは事実である。そしてそれが事故ではなく、人間に対する悪意からなる故意だったこともまた、事実。更に力も身体の丈夫さも――今この船に乗船する魚人と人魚たちだけと限定すれば――明らかに弱く、脆い。その上このようなことが続かないと断言することはできないというのに、当の本人はどこ吹く風で「お前は一体どこに危機感を捨ててきたんだ」と問い質したくなるものだ。

「あなたの感情も、行動も、正しいよ。」

 くらり、目の前が白く眩んで。
 まるで頭を強打したような衝撃が。

「……テメエはやっぱり、変わったやつだ」

 にこり。彼は優しく微笑んだ。

「世界があなたを悪だと言っても、私はあなたを正しいと思うよ」

 傾けた頭に従う黒髪が白い肌と重なって、華奢な肩から流れた柔らかな毛束に声を呑み込む。


 嗚呼、魚人島われら英雄せんちょうよ。


[ prev / next ]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -