「どういうことか話してくれんか」

 異常に気付いたのか、偶然甲板へ顔を出したのか、どちらであるかは分からないが、タイガーの後に続いて形容しがたい空間に足を踏み入れたジンベエは誰に問うでもなく声を上げる。

 アーロンはその言葉にぼんやりとした頭で言い訳を考えた。殴り飛ばしてしまったのは変えようのない事実であるし、思わず手が出てしまったというには悪意が大きすぎる。じゃれていたなんて嘘は通じないし、第一そんな嘘は吐きたくなかった。そもそもどうして言い訳を考えているのだろう。
 纏まらなくなった思考を投げ出し、甲板に転がる気味の悪い人間を睨みつけた。

 それはアーロンがステンシアを殴ったことを自白したようなものであったし、一部始終を傍観していた誰の口からもそれ以外の言葉は出てこないだろう。けれど、同じ空間にいて彼を止めることも船長室まで呼びに行くことさえできなかった船員に非がないとは言えず、結果的に返されたのは沈黙だった。

 淀んだ重苦しい沈黙を破ったジンベエはアーロンを睨みつけ、ばつの悪そうな顔をする船員にため息を吐く。
 僅かに顔を強張らせ、ステンシアを仰向けに転がしたタイガーは正常な呼吸に気を失っているだけであることを確認し、横抱きに男を抱え上げた。

「アーロン、船長室に来い。おれは医務室に行ってから向かう」



 船長室でタイガーが放った言葉にアーロンは瞠目した。

 思わず目を見張るほど怒られたわけではない。そもそもタイガーは怒鳴りつけるような気性の荒い人ではないのだ。けれど、それにしても異常に感じられるほど冷静に、静かに声を放った。

 今までそんな風に考えたことなどない――ならばそれは何なのか、答えが出せないから考えてこなかったのかも知れない言葉に、アーロンはただただ茫然と立ち尽くす以外の選択肢を奪われてしまっていた。

 タイガーの表情は動かない。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなく、また、笑っているわけでもなかった。所謂無表情といわれるそれに、アーロンは今までと違う圧力をひしひしと感じ取る。――タイガーにその気はないのだろうが、アーロンにはそう思えてならなかった。

「あれ≠ヘ、タイヨウなんだ。おれたちが幾ら焦がれても手に入らない、触れることも、直視することも、許されてはいない」
「――は」

 聞き返した。あるいは思わず零れ落ちてしまったのか、アーロンが小さく息を吐き出す。

「本来なら、おれたちが知るはずもない存在なんだ。あいつと、おれたちは――」

 タイガーはそんなアーロンを気にする様子なく音を紡いでいく。優しくて、どこか諦めたような声音で続けていく自らの船長にアーロンは顔を顰め、すとんと、あまりにも呆気なく納得した。

 住む世界が違う。

 その言葉は拒絶のようであったのに。

「――彼は、人間ではないのだ。」

 タイガーはアーロンを瞠目させた台詞を再度口にした。

 ならば何だとなるけれど、ああ、確かにそうかも知れない、と。アーロンは船長室に取り付けられた窓から海面を眺めた。

 船長――フィッシャー・タイガーが連れてきた人間とまるっきり同じ姿形の男は忌むべき人間ではなく、同胞たる魚人や人魚でもなく、遥か幼きときに憧れた世界の住人が当たり前に目にするタイヨウだったのだ。

「……おれは怒らねえ。ステンシアも、お前を責めることはしない」

 淡々と言葉を紡ぐ。

「あいつはな、この世界ごとおれたちを愛しているんだ」

 罪も人も憎まない。

 タイガーとて本当にそんな人がいるとは思っていなかった。けれどその思考をもつ人と出会ってしまった。出会えてしまったのだ。
 凡そ生き物とすら思われない生き地獄の中で、その出会いは突然に。穏やかな笑顔を浮かべた顔が憂い顔に一変し、それ≠ヘタイガーに声をかけた。

「怪我をしている。手当をするから動かないで」

 今にも零れそうな涙を堪えタイガーを見上げる長い黒髪に言葉を失い――黙り込んでしまっては殺されてしまうかも知れないと気を持ち直し、けれど少しでも気に障れば殺されかねない地獄では見たことのない人間のような気がして無言を貫く。

 どこからか包帯を取り出した人間の綺麗に澄んだ海の色をした瞳からほろり。雫が緩やかに弧を描く白い肌の上を走った。

 ごめんね。独り言のように呟かれた単語に瞠目し、ひりりと僅かな痛みの後に手慣れた様子で巻かれていく白い布を茫然と眺める。「ごめん」と、それは何に対する謝罪だろうか。ここで見たこともない人間に謝られて、何かが変わるわけではない。この生き地獄を味わっている同胞は多く、奴隷を相手に命という概念自体が欠如した天竜人の暇つぶしに消える生命の多さも変わることはないのだ。

「――今を、変える意思はありますか」
「……は、」
「私の力では、今苦しむ複数を救うことができません」

 潤んだ瞳のその奥に強い意志を見たタイガーは包帯を巻き終えた人間を見据える。

「あなたが望むのなら、私はそれに手を貸します」

 人間は信用ならない。憎い。

 しかしこれは次の世代に引き継がせるべきではないことだというのは分かっている。そうはいっても感情がついてくるか否かは別なのだ。

 タイガーは首を横に振り、人間の言葉を拒否する。心なしか気落ちした様子で横を通り過ぎる人間が持ち込んだ甘い香りにフィッシャー・タイガーは小さく舌打ちした。


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