ピリリと甲板に緊張が走った。
何があったのだろう。声を出すことはおろか、呼吸さえ躊躇われるような張り詰めた空気の中、甲板の手すり付近で寝そべるような体制をした影が動く。
甲板にいる者たちと比べ、小柄な体躯の者などただ一人しか思い当たらないが、怒りと嫌悪を全身に滲ませる粗暴な魚人を前に、誰一人として身動きが取れずにいた。
人間が魚人族にしたことを忘れてほしいだなんて思っていないけれど。小柄な影が言葉を紡ぐ。
「私は、あなたに、何をしましたか」
お前が何かをしたのではない。粗暴な魚人は言い切った。
彼は分かりたくなかったのだ。認めたくないのだ。
長い長い歴史の中、迫害してきた人間は存在自体が卑しいものでなくてはならなくて、その中に例外などあってはいけない。人間という脆弱な下等種族の概念を揺るがされることなど、あってはならない。
幼いころから自分の中で育ってきた人間への嫌悪感が、今までの自分の全てを否定されているような不快感と焦燥感、得体の知れないものへの恐怖もあっただろう。焦ったアーロンは握った拳を感情のままに振りかざした。
目の前にいる個体を、人間と分類してはいけない気がした。
これは人間ではない何か≠ナあってもらわなければならない。何なのかは分からないけれど、人間などという下等生物に恐れを抱く理由など、ないのだから。
「アーロンさん!!」
しがみつくようにアーロンを後ろから抑えながら、ハチはこの後何をするべきか必死で考えた。
タイのお頭は、ジンベエさんは、アラディンさんは、この場にはいない。アーロンさんはこのタイミングを狙っていたのではないかと感じる状況に、思わず全てを投げ出したくなってしまいさえする。
「離せハチ! その腹ん中じゃおれたちを見下して笑ってやがるんだろ! 人間ってのは――」
「なんで? どうしてあなたたちが種族で分類分けをするんですか。手を取り合いたいと思うことが間違っているというのは、なぜ?」
「おれたちとの決別を求めたのは貴様らだろうが! それが、何でだって? テメエは底抜けの馬鹿か!!!」
ハチの拘束を振りほどいたアーロンの台詞が海上を走り、沈黙が甲板を支配した。さすがにここまで言われてしまえば、言い返す気力も失せてしまうか。心なしか下がった気温に身を強張らせつつ、ハチはステンシアを見る。
手すりを支えにし、座り込んだ体制から立ち上がった彼は、一歩、アーロンへ近づいた。
ゆっくりと、空気を支配するような圧迫感を携えて、彼は言葉を紡いでいく。
強くて、仲間思いで、優しいあなたが。
「劣等感を募らせて、怒りに身を任せてしまうのは、どうして?」
アーロンの目の前に立ったステンシアが手を伸ばし、壊れ物を扱うような手つきで頬に触れる。その言動が、更なる不快感と嫌悪感を掻き立てた。
劣等感? 何に。魚人族の怒りをまるで分っていない。実に愚かで、浅はかで、平和ボケした卑しい生物だ。
「数でしか勝てねえ下等種族のくせに、知った風な口を叩くんじゃねえ!! おれたちは! 脆弱なテメエ等に虐げられて黙ってるほど馬鹿じゃねえんだ!!!」
振り上げられた拳を視界に捉え、彼は、タイヨウの海賊団船員ではない男は、ゆったりと口角を上げた。
何だ、その反応は。違うだろ。
ぞわり。と、得も言われぬ感情に背筋が粟立つ。
何だ、これは。何なんだ、こいつは。
一瞬のためらい、速度は、威力は、幾許か落ちたかも知れない。抵抗なく飛んだ華奢な身体は甲板に叩きつけられ、小さな呻き声を漏らした。
甲板がどよめく。死んだんじゃねえのか、どうすんだよ。
ざわざわ、耳障りな喧騒。人間が一人、死んだところで。どれだけ重傷を負おうが気にしたことはなかったことだのに、どこか落ち着かない。人間がいつどこで死のうが、勝手じゃないか。それなのに、何故。あの笑みは、見透かしたような瞳は、何だ。
「――なんじゃ、この騒ぎは」
それは幼いころから聞いてきた兄貴分の声で。積み上げてきたものが崩れ落ちる感覚。
ひやりと、背筋に冷たいものが流れ落ちた。マズい。
何が……? おれが人間を許せないのは、それらに対して荒っぽいなどという評価を受けていることは百も承知で。じゃあおれは今更何に焦っているというのだろうか。
全てがグレースケールに落ちたような錯覚に、時間の経過が恐ろしく遅く、音は普段の何倍にも遠いような気がした。
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